1973年(昭和48年)の8月初旬。
和歌山県御坊市で開かれた高校バレーボール近畿大会。
その3回戦で京都の木津高校に敗れたその翌日から
僕の受験勉強が始まった。
大阪府立箕面高校。
明治の森箕面国定公園の名高い滝がランニング射程距離にある
のんびりした雰囲気の中堅進学校。
箕面の滝 紅葉がきれいです。
そこの3年次第1回校内実力テストで私立文系型180人中173位だった僕は
「現役で大学に行きたいなら・・・」との
担任による部活動早期引退勧告を一顧だにせず
日曜祭日も返上し、ひたすらバレーボールに汗を流していた。
その甲斐あってチームは宿願の大阪府ベスト4入りが叶い
8月頭の近畿大会にシード出場することができたのだ。
大阪府立箕面高校 矢井田瞳の母校でもある。
こうして高校時代のハイライトと呼べる思い出ができたのは幸せだったが
こと受験の準備ということになると
それはもう目も当てられぬ有り様で
「この参考書にSVOCと書いてあるけど
これVSOPの間違いだよね」などと質問して
友人がなぜか異邦人を見るがごとき目で私を見るのを
不思議に思っていたりしたのだった。
長嶋茂雄さんは I live in Tokyo. を過去時制で書き換えると
I live in Edo. になると思っていたそうだが
当時の僕は、決してそれを笑えないレベルにあったのだ。
けれども、同志社の英文に現役で入ってやると心に決めていたから
残りの夏休みは朝から晩まで町の図書館で独りマラソン特訓に打ち込んだ。
最初の3週間は国語も日本史もほとんどそっちのけで
ひたすら英語をやりまくった。
入試レベルの英語長文のたった1つ2つのパラグラフを読み解くのに
まる一日掛けたりした。
辞書を引き、参考書を調べ、自分が納得のいくまで読み込もうとすると
どうしてもそれくらいの時間が掛かってしまったのだ。
それでも、納得のいくまでやる、という姿勢は功を奏することになる。
2学期に入って間もなく行われた第2回実力テストで
僕は170人ごぼう抜きにして一気に3位に躍り出たのだ。(続く)
プリティ中野