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  • 大学へ行く皆さんへ~安達雄大の受験雑考その十四
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    まだ戦いが続いている人もいますが、
    その人たちに未来形で言うのも含めて、

    受験、お疲れ様でした。

    もう一年頑張ることにした皆さんは、もう一年頑張りましょう。

    そうではない人たち・・・。
    これから君たちは大学に行きます。
    大学に行って、社会に出てからどんな自分を生きるかを形成します。
    4年間もの間。
    そんな君たちに、一言だけ、アドバイスを送ります。
    すなわち、「お金になる仕事に就くことよりも、好きなことの先にある仕事に就くことを考えなさい」。

    「好きなことは仕事にしたくない」・・・そういう価値判断をよく耳にします。
    この考え方には一理あると、思ってはいます。
    でも、それはとらえ方によっては、
    「好きなことではない仕事」の時間の分だけ、
    本当の自分を殺す・・・ということも含んでしまう。

    「仕事から解放され、好きなことをしている本当の自分」は、
    「好きでもないことを仕事としてさせられている自分」を犠牲にして成り立つものです。
    1日は24時間。
    そのうち16~7時間起きているとして、そのうち8時間は「仕事」に、あとは「仕事以外」に。
    こういう内訳を想定すると、
    「好きなことは仕事にしたくない」という発想においては、
    起きている時間のうち何と半分も、自分が死んでいるということなんです。

    「アフターファイブ(5時以降)からがホントの自分」という発想も、同じ。
    要するに「ビフォア―ファイブ(5時まで)は自分が死んでいる」ということを前提にせざるをえない。
    それはそれで、貧しい人生ではなかろうか?

    現代文の評論で、「遊びの価値の再認識」ということをテーマにした文章が、
    よく出てきます。
    禁欲的な「労働」を、「日常」「中心」「社会規範」に位置付け、
    それに対して「遊び」を、「非日常」「周辺」「副次(二次)」としてしか認めない。
    このような二項対立の中で労働と遊びを切り離す近代主義を問い直し、
    「遊び」の価値を、見出し直すことはできないか・・・。
    そういう議論です。

    ここでいう「遊び」を、「義務・労務による自己ではなく、
    本来の自己の姿で生きている状態」と定義するなら、
    「仕事」「労働」をしている間も、「遊び」は可能なのではないか。
    そう思うわけです。

    僕は今、そういう自分を生きています。
    僕を「仕事人間」「24時間労働の奴隷」ということも簡単ですが、
    不思議なことに、それが何ら苦には感じられないんですね。

    それに、
    自己内発的な意欲に基づいて労働をしていますから、
    労働外もまた生き生きとしてくる。
    何だったら、労働外の時間も、自己内発的にちゃっかり確保できています。
    自分でも、良い循環だな・・・と思っています。

    「お金のために自己を殺すことは避けられない」という言い方もあるだろうが、
    「お金」って、意外と後からついてくるものですよ?
    というより、「好きでもないがお金になる仕事」が、お金にならなくなることは、あり得ます。
    その時、そういう仕事を選んだ人は、どういう日々を送ることになるんでしょうね。
    「今は金にならないが、好きだから苦にならない仕事」には、そういう疑問がそもそも起こらない。

    さて、大学で4年間学ぶ君たちへ。
    「お金はそれほどないが、1日の全てを自らのものとして生きている」という人と、
    「お金がないわけではないが(お金はあるが)、1日の半分死んでいる」という人。
    君は、どっちになりたい?

    安達雄大  2016年3月19日 記

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