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  • ほんとうの幸せってなに

    1 はじめに

    人間の知恵と努力は、いかに欲しいものを手に入れるか、自己の欲望をどのように満たすかに汲々として来た。特に、20世紀の時代に生きてきた私たちは、物さえ豊かになればしあわせになれると信じ、もの文明の繁栄を求めてきた。その結果、人の欲望は限り無く広げられてきた。豊かな暮らしの中で、パソコンが欲しい、薄型テレビ、新車も欲しい、とより豊かさを求めている。小学生には、登、下校の安全性確保や現在地の確認の為に「ケイタイ」は、必需品となっている。

    確かに、便利となったが、「ほんとうに幸せである」と言う実感が湧いてこない。なぜであろう。欲しいものを次から次ぎへと獲得できたのだが、広がる欲望は際限がない。

    一方では、異常な犯罪や悲惨な事故が多発している。母親が自分の子供が邪魔となってきたといって橋の欄干から突き落とす。親に叱られて家に火をつけ母親や兄弟を殺してしまった。と聞くに堪えない事件が起こっている。

    ほんとうの幸せを皆さんと共に考えてみたいと思います。

    人は、何の為に生まれ、生きているのだろうか。なぜ、苦しくても生きていかねばならないのだろうか。「人生の目的」はなにか。

    難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり。

    (真宗聖典『教行信証』p.149)

    親鸞聖人は、「苦しみの波の絶えない人生の海を、明るく渡す大船がある。その船に乗り、未来永遠のしあわせに生きる為である。」と私たちに応えていてくれています。

    2 智慧の光明(ひかり)と慈悲の光明(ひかり)

    太陽と月、特に、ここでは月の明るさについて語っています。真昼に輝く太陽が万物を育成する灼熱の光であるならば、満月の夜にそそがれる明るき光は、威力はないが、静かに、しかも心身に徹透していくような内省の光であるとも言われております。太陽の光は、こころの闇を覆い隠す光であり、月の明かりは人間の陰影を映し出すものとも言われています。確かに太陽は生命観、躍動感に溢れ私たちに生き生きとした生活をもたらします。

    一方、月には寂静感、透明感を抱かせます。暗闇の中にスポットライトのごとく一人浮かび上がらせ心の中まで曝け出させます。

    太陽が「智慧」の光明なら、月は「慈悲」の心である。法然も、親鸞も、如来の光明を「月影」に喩え大衆のこころの安寧を約束されたものであろう。私たちも大いなる力の中で生かされる身、「よく生き よく死する」ために不断の努力を惜しんではならないと思います。

     
    (1) 法然上人のお歌

    月影の いたらぬ里は なけれども ながむる人の 心にぞすむ 

    (法然上人御歌)

     阿弥陀さまから智慧や慈悲の限りない光は、あらゆる世界の隅々を照らし、お念仏を唱える人々を一人残らずすべてを救いとってくださいます。念仏三昧、そのような日暮がしたいと願った讃歌である。

     
    (2) 親鸞聖人のお歌

    明日ありと 思う心の仇桜 夜半に嵐の 吹かぬものかわ

    (親鸞聖人御歌)

    (意訳)あの月を見るように、なぜ、私は澄み切った月を澄み切った月として正直に見えないのだろう。みだらな雲が湧き上がり、こころの天を覆い隠す。こんな暗い心のままで、死んでいかねばならぬのか。

    4歳で父と、8歳で母と死別されたと言われる親鸞聖人は、9歳で出家、得度ししと言われています。そのとき、つぎは私の番だと死の影に怯えこの歌を詠まれたのではないか。そして叡山への登られたのではないだろうか。

    吸う息、吐く息に、永遠の苦しみに沈む自己を知らされて、いても立ってもおれぬ不安に襲われる。こんな一大事を持ちながら、どうして無駄な一日をのんびり過ごせようか、一日を大事にせねばならない。 それから20年、山中での生活、若き親鸞の煩悩との格闘だったに違いない。

    定水を凝らすと雖も知浪頻りに動き、心月を観ずと雖も妄雲猶覆う。しかるに一息追がざれば千載に長く往く、何ぞ浮生の交衆を貪りて、徒に仮名の修学に疲れん。須らく。勢利をなげすてて直ちに出離を悸うべし。

    (真宗聖典p.744 歎読文)

    静寂な夜の山の上で、修行に励まれる聖人が、ふとみおろす琵琶の湖水は、月光に映えて鏡のようだ。「あの湖水のように、なぜ、心が静まらぬのか.思ってはならないことが思えてくる.考えてはならぬことが浮かんでくる.恐ろしいことが心に吹き上がる。どうしてこんなに、欲や怒りが逆巻くのか。この心、なんとかせねば・・・・・」平静な湖水にくらべて渦巻く煩悩に泣く聖人が、涙にくもる眼を天上にうつすと、月はこうこうと冴えている。

    そのように親鸞は、悩みながら、思い出深い叡山を下り、法然上人の説く「苦悩の根元『無明の闇』を断ち切って、感慨無量のいのちを与える弥陀の誓願」に出会い、驚きと喜びを得るのである。

     
    (3) 良寛和尚のお歌

    浮き草の生きふる渚に月影の ありとはここに誰か知らん

    良寛和尚(1758~1831)

    江戸時代の和尚さんのお歌です。良寛が里へ行き、子供たちと遊び終え、夕日が映える頃、庵へ帰る途中、気がつくとまん丸い月が山の上に昇っていました。通い慣れた道で、傍らの茂った葦の間のちょっとした所に水溜りがある。その水の中に月の影がくっきりと映っている。お月様は澄み切って荘厳そのものである。昼間なら誰も気づかないでいる水溜りには、今、天井の月がさやかに映っており、すばらしい情景を見せている。山奥に住んでいる私とよく似ている。・・・・・・・・・そんな事柄を詠んだ和歌であると思います。

    人は、とにかく、精一杯生きること、そうすれば必ず心の中に月影が見えてくる筈です。また、苦しければ苦しいほど、月影ははっきりと澄んで見えます。

    3 人間性の回復

    暗い話題から抜け出せなく、不安な世情が続いています。国外ではロシア・ウクライナ戦争、イスラエル・パレスチナ紛争と何十万の人々の命が一瞬にして失われました。まさに地獄絵です。国内では、親が幼児へ虐待をする、児童の誘拐、殺人、追い打ちをかけるように台風、能登半島地震により多くの命や住まいを失い路頭に迷い不安な日々を余儀なくしています。

    今からおよそ800年前の時代、1170年代(承安年間)は源平合戦の時代であり、世は末法を迎えていたと言います。戦や転変地変の続く乱世となる。その時代、京都では大火で2万余戸が焼失し、政治が不安定となり平家と源氏の争いが始まります。この末法の世を、仏の教えを行われる正法に戻す努力をするのが僧侶の役目であったが、当時の僧はいたずらに権力にこびへつらい、折りやまじないに憂き身をやつして、人々の心の救済に尽くそうとする者はまれであったと言われています。まさに、21世紀の今、その世の再来・再現と言ってよいと思います。

    世の中の動き、時の流れをみますと、平和と幸福の道を求めながら、「人間性の時代」へと動こうとしています。この21世紀は、ともすれば人間が獲得した知識や技術が大きく評価され、物の豊かさに価値観が置かれていました。これからは、その知識や技術を使う人間性そのものが重視され、心の豊かさに価値観が重視されるようになると思われます。「豊かな人間性回復」が強く求められる時代となってきました。

    神仏のこころとは、人間性には、一般的に言って、感謝、慈愛、奉仕、思いやり、誠実などがありますが、その根幹となるものは「仏の慈悲」であると思います。

    「慈悲」には、深い浅いに別がありますが、対象が誰であろうと、何時までも平等にそそがれるものです。言い換えれば「純粋な愛」です。このようなことは人間社会にはないことだとおもいます。これを「仏さまのこころ」と理解します。智慧・慈悲が無限に働き出すお方、阿弥陀仏のこころを頂くよりほかに道はないと考えられます。仏は、全ての人へ愛をどの所でも、誰にでも、いつでも等しくこの世に実現したいと言う意思を、苦しみ悩む人々を掬いとりたいという意思を願っているのです。仏、すなわち阿弥陀さまは決して人々を選んだり、嫌ったり、捨てたりはしません。人々への平等の愛を誓われているのです。

    台風や地震での大災害が起きました、それを伝え聞いて多くの人々の心に、自然発生的に「ああ、気の毒だ、何とかしてあげたい」と言う気が何処からとなく起きてきます。その気持ちは、誰が起こしたか。誰でもない不思議に起こったのです。そのこころは起こす者なくして起こる、何処からともなく起こる。全く不思議なことです。この不思議は、人間の、人のはからいを超えており、縁が熟すればいつでも、何処でも起こります。これが仏さまの心だと思うのです。

    4 ほんとうのしあわせ

    日頃の私たちの心は、自分さえよければよいと、自己が最優先いたします。しかし、もし私たちが利己、自我を推し進めた生活をするならば、必ず自らが不幸になります。決してこころの満足は得られません。周りが幸せであると、その幸せが私たちをまた幸せにしてくれます。他を幸せにすると自己がおのずと幸せとなるのです。世の中はそういう構造になっているのです。自己の利益のみを極端に追求すると、それが自己の幸せを導くどころかますます不幸、孤立に追いやります。こころの拠りどころは、すべての人が平等に幸せであって欲しいと言う「阿弥陀の願い」と呼ばれる心持です。

    自分自身にたいして、素直であり、誠実であると言うは、他人に対しても誠実であることが人間尊重の真意であろう。

    人に対して誠実であるには、約束を守り、自分の責任を明らかにし、失敗しても言い訳をせず、そして、相手の身になって考えると言うことです。自分に対して誠実であれば、働く場や学ぶ場にあっても、私生活においても真剣になります。真剣な生活態度の中でこそ、その人の人格も知識も技術も自然に磨かれて人々の信頼を得ます。

    日々の生活の中で、あなたは何を願い望んでいるのかと問われますと、ただ目先のことしか答えられません。腹が減れば食べたいと思い、満腹になれば眠りたいと思い、退屈になれば外に出て遊びたいと思います。そういう目先のことで願望を満足させようとする限り、次からつぎへと心を紛らわすものが続き、本当の満足を得ることはできません。本当の満足を知り得なければ、私たちの人生は、ごまかすより他にないと思うのです。

    仲間内で、最近、こころの温もりが少なくなった。自分の尺度でものを考え口先き巧みで理屈のみが先走っている。言葉に感動もなければ、親愛の感情が生まれない。そうならないように相手の立場を理解し、人の痛みの分かる暖かさをもって欲しい、と愚痴をこぼすのです。

    今、これから何かを学び取ろうとする皆さんへ学ぶと言うことについて、お話をします。学ぶというのは、単に物知りになる、知識を得ると言うことではありません。ひとつの事象にぶつかる度に、その原理を何故こんなことが起きるのか、自分がそのことをどう受け止めればいいか、どう処理すべきかを考えて解明し処理していくと言うことだと思います。就職する人、進学する人も、「学ぶ」と言うことの本当の意味をわきまえ、常に学び続けなければなりません。それを忘れなければ、どんな失意のどん底に落ち込んだ時でも、一瞬の後には青空を見上げることができます。

    5 おわりに

    さて皆さん!

    「世尊、我一心に、尽十方無碍光如来に帰命して、安楽国に生まれんと願ず。」

    (真宗聖典『願生偈』 p.135)

    と言う言葉があります。この意味は、悪行煩悩にさえられず、よくさわりを打ち破って照らす光の名としたもの、即ち阿弥陀の名です。照らす光とは、一切の煩悩に足場を与えている無知を破る仏の光のごとし。弥陀の願い、阿弥陀佛が、自己の修めた功徳をめぐらし、人々を掬い取ることへの願いに目覚めた心、真実の心、なにものに動かされない安らぎの心です。その光は十方へ広がり、いつでも、誰にでも、何処にでもたらすと言うのです。わたしたちの独りよがりの考えをさしおいて、二心なく阿弥陀の心を受け入れる、受け止める、いただくのです。

    「すべての人が平等であって欲しい」と言うのがこころの拠りどころであると言いました。このことは私たちが自分で持つことは殆どできません。自分でもてないこころです。これは私たち以前に、あるいは私たちの周囲に、暖かいこころを手向けてくださるお方があって初めて、私たちの眠っているこころが目覚めさせられます。仏さまによって目覚めさせられるこころです。私たちのこころが仏さまを念ずるようになるのは、自分の力ではなく、いわば他から念じられて起こる心です。「助けてくれよ、幸せになってくれよ」と願う心が、何らかのチャンネルを通して、親なり、友達なり、あるいは先生なり、いろいろなご縁のある方々の心を通じて、私たちの心に働きかけてくる。それが私たちの心の奥底に目覚めを促し、その目覚めたこころが実は仏さまを思う心、念仏する心となるのだと思います。

    世の中の動きの激しい今の時代、産業が日々に進歩、発展し、文明・文化も進み、私たちの暮らしにも大きな変化を見るようになってきました。貧困から逃れるために、ものの豊かさを求めあらゆる分野で懸命な努力が続けられてきました。ものの豊かさが心の豊かさに通じるとしてきましたが、暮らしにとっての利便性を求め、欲しい物を次から次へ買いあさり、欲に溺れ、ついには世の中に人間が呑みつくされてしまいました。人間が資本の蓄積された道具になり、時間が賃金で換算される。そうした社会と対立しこころが脅かされ、踏み倒されてしまいました。私たちに、このような社会での人間の生き方、あり方をひっくり返し、真の人間の生き方、あり方の回復が待たれます。

    仏教系の学校では、法然上人や親鸞聖人のみ教えにもとづく教育を標榜しており、校訓として人間尊重つまり命の尊さを掲げています。この校訓は、弥陀の智慧を拠りどころにして、人間らしい生き方、あり方一生をかけて学ぶことを願ったものです。

    悩む人々に限りない慈悲の徳の働きかけ、姿や形を超えた真実が人間の聞きうる言葉としての仏さまの言葉、寿命(じゅみょう)と光明の二つの徳を表す「なむあみだぶつ」、この言葉は、私と言う人間が根底から支えられている「まこと」の法を一語で表したものです。

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