第一章
コロナ禍の中で、生業上対面がほとんど許されることなく生活サイクルが嚙みあわず日にちの変化に対応できないままに三年有余が過ぎ去ってしまった。
時に、宗祖親鸞聖人生誕八百五十年・立教開宗八百年を迎え、テーマ「南無阿弥陀仏 人と生まれたことの意味をたずねていこう」に各種の周年事業が本山を始め各地区教区で行われている。以前からこの機に親鸞聖人の足跡を旅行してみたいと願っていたがそれも叶わず明け暮れていた。そんな中、ある寺族の卒業生から、是非に報恩講で「親鸞聖人の主な足跡」と題して講話を是非にと依頼を受け、困り果てていたが承引した。それから半年の間、手持ちの仏教書とほんの少しの知見をもとに原稿書きに入った。
親鸞聖人の幼少時代、少年期、青年期、成青(壮年)期、還暦以降の期に分類し、浅博ながら主な動きを点と点を追うことができた。点一つに徹頭徹尾な修学、生き様、精神力を私たちに与えてくれている聖人の実相に触れたことを歓びたい。当に、阿弥陀仏の化身と尊崇するものである。この機会を与えてくれた我が教え子に改めて御礼申し上げたい。
人間の知恵と努力は、いかに欲しいものを手に入れるか、自己の欲望をどのように満たすかに汲々として来た。特に、20世紀の時代に生きてきた私たちは、ものさえ豊かになればしあわせになれると信じ、もの文明の繁栄を求めてきた。その結果、人の欲望は限り無く広げられてきた。豊かな暮らしの中で、パソコンが欲しい、薄型テレビ、新車も欲しい、とより豊かさを求めている。小学生には、登下校の安全性確保や現在地の確認の為に「ケイタイ」は、必需品となっている。確かに、便利となったが、「ほんとうに幸せである」と言う実感が湧いてこない。なぜであろう。欲しいものを次から次へと獲得できたのだが、広がる欲望は際限がない。
一方では、異常な犯罪や悲惨な事故が多発している。母親が自分の子供が邪魔となってきたといって橋の欄干から突き落とす。親に叱られて家に火をつけ母親や兄弟を殺してしまった。と聞くに堪えない事件が起こっている。ほんとうのしあわせを皆さんと共に考えてみたいと思います。
難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり。
(真宗聖典『教行信証』p.149)
人は、何の為に生まれ、生きているのだろうか。なぜ、苦しくても生きていかねばならないのだろうか。「人生の目的」はなにか。親鸞聖人は、「苦しみの波の絶えない人生の海を、明るく渡す大船がある。その船に乗り、未来永遠のしあわせに生きる為である」と私たちに応えている。
親鸞聖人の入滅後、その命日には門弟たちが念仏・聞法の集まりの場を開いていました。聖人の三十三回忌にあたる1294年(永仁二年)、聖人のひ孫・覚如上人が「報恩講式(私記)」を著されました。「報恩講式(私記)」は聖人のご命日に拝読されるようになり、これによってご命日の法要が聖人の恩徳に報いるという明確な意味を持つようになりました。このご命日を「報恩講」と呼び、今もなお浄土真宗において最も重要なお仏事として、各寺院・ご門徒宅で大切に勤められています。東本願寺(真宗本廟)における報恩講」は「御正忌」とも呼ばれ、毎年11月21日から28日の7日昼夜にわたって厳修されます。
本年も無事に報恩講が修まりました。一年に一回が無事にと簡単に言ってしまいましたが、この一か月終えて後片付けまで多くの人達のおかげを頂いてのお勤めでした。報恩講とは何だろう。生きている者同士が、今生かされていることを報告する会だと思っています。
歎異抄(たんにしょう)を少しのぞき見ました。歎異抄の第一章から十章までは、親鸞聖人の声について述べられています。第十四章では、親鸞聖人が私たちに話し、訴えていることの内容と人々へ伝えられている内容が異なっていることを唯円大徳師は嘆き悲しんで事を切々と説明していると言われています。
人間は罪を犯して、生きている。良いこともしているが大方は罪作りの人生なんだ。私の人生の中では八十億の罪がある。「一声の念仏で罪が消える。」と言う言葉があります。この意味を誤って、免罪符とする者がいる、何と浅ましいことだ。と嘆き悲しんでいる。
今日一日が無事であったと言うが、日暮しの中には当たり前と言うことなど一つもない。あるとすれば、それは傲慢そのものです。例えば、本日、皆さんの前でこうして研修会へお招きを受け、もっともらしい装いで話していることは、言ってみれば、自分の経験を威張って話をしているのではないか。この話の材料は、実は、多くの先輩や身近にいる先生方から教えて頂いたことを忘れてしまっている。愚かしい私である。
第二章
出家と修学
親鸞聖人は、1173年(承安三年)4月1日に、法界寺、日野・誕生院付近(京都市伏見日野)にて日野有範、吉光女の長男として誕生しました。
その時代、1052年(永承七年)頃、末法の時代に入り末法思想が広まり、洛中では、保元の乱が1156年(保元元年)7月9日に勃発し、1159年(平治元年)12月9日には平治の乱が起こりました。貴族政治から武家政治へと政権が移る等、民心が乱れ政治、経済、社会全体が混乱した時代であった。洛中には内乱(戦)、天災による飢饉で多くの人々が家を失い野宿するなど一般民衆の生活は混乱していました。疫病や内戦で亡くなった人達の遺体が至る所に野ざらしにされていたとも言われています。
親鸞聖人の幼名は松若麿または松若丸と言われていました。1181年(養和元年)9歳にして、叔父の日野範綱に伴われて青蓮院で慈円和尚(後の天台座主)のもとでお得度され範宴と名を改められました。 範宴は出家後、比叡山延暦寺に上り、慈円の勧めにより横川の首楞厳院の常行堂で天台宗の堂僧として不断念仏の修行をされていました。その間多くの経本を読破されました。20年の間、常行堂に籠もり不眠不休の厳しい修業を重ねられましたが自力修行の限界を感じながら苦悩の日々を続けておられました。
明日ありと 思う心の仇桜 夜半に嵐の 吹かぬものかわ
(親鸞聖人御歌)
<意訳> あの月を見るように、なぜ、私は澄み切った月を澄み切った月として正直に見えないのだろう。みだらな雲が湧き上がり、こころの天を覆い隠す。こんな暗い心のままで、死んでいかねばならぬのか。
4歳で父と、8歳で母と死別されたと言われる親鸞聖人は、伯父の日野範綱の養子となり小納言範宴公と号し、9歳で出家、得度したと言われています。そのとき、つぎは私の番だと死の影に怯えこの歌を詠まれたのではないか。そして叡山への登られたのではないだろうか。
吸う息、吐く息に、永遠の苦しみに沈む自己を知らされて、いても立ってもおれぬ不安に襲われる。こんな一大事を持ちながら、どうして無駄な一日をのんびり過ごせようか、一日を大事にせねばならない。それから20年、山中での生活、若き親鸞の煩悩との格闘だったに違いない。
『定水を凝らすと雖も知浪頻りに動き、心月を観ずと雖も妄雲猶覆う。しかるに一息追がざれば千載に長く往く、何ぞ浮生の交衆を貪りて、徒に仮名の修学に疲れん。須らく勢利をなげすてて直ちに出離を悸うべし』と。
(真宗聖典p.744 歎読文)
静寂な夜の山の上で、修行に励まれる聖人が、ふとみおろす琵琶の湖水は、月光に映えて鏡のようだ。「あの湖水のように、なぜ、心が静まらぬのか.思ってはならないことが思えてくる.考えてはならぬことが浮かんでくる.恐ろしいことが心に吹き上がる。学問を修めたとしても金持ちになれるわけでもないし、出世できるわけでもない、自分の思いが果たされる保証もない。どうしてこんなに、欲や怒りが逆巻くのか。この心、なんとかせねば・・・・・」平静な湖水にくらべて渦巻く煩悩に泣く聖人が、涙にくもる眼を天上にうつすと、月はこうこうと冴えている。
そのように親鸞は、悩みながら、思い出深い叡山を下り、法然上人の説く「苦悩の根元『無明の闇』を断ち切って、歓喜無量のいのちを与える弥陀の誓願」に出会い、驚きと喜びを得るのである。親鸞聖人は9歳の時出家して比叡山に上り20年間そこで修行をしましたが29歳の時、古い体質の仏教に絶縁して山を降りました。
行者とは、真実の救いを求める仏道修行者のこと、修行者(僧)は、一切女性に近づいてはならないという戒律(不邪淫戒)がありました。しかし、情と欲から生まれた人間が、情と欲を離れ切れない矛盾に突き当たったとき、悶え苦しんでいる善信(範宴)に対して「行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽」と救世観音菩薩は夢で教えられたものと思われます。
女犯の夢告の後、すぐに、1201年(建仁元年)、善信は、これまで叡山・常行堂で修行していましたが やがて常行堂での堂僧を出て、法然上人(法然坊源空)の念仏門に入りました。
【天女聖人に明玉を授ること・叡山経蔵建立之こと】
建久九年戊午年 範宴少僧都26歳初春、叡山へ登る途中の赤山明神の宝前にお参りし、法施の心静かに読誦していた所に瑞垣の陰より怪しげな女性が一人いました。その容貌はとても美しく柳裏五衣に練貫の二重なる打被を着てまやかしの大内の住んでいる人に見えました。はしたないことですが範宴の近くへ寄ってきて「御僧は何処へお出かけですか」と尋ねられました。供侍の相模の侍従が「京より山へ登ります」と女姓は「私は、数年前から比叡山へ参詣したいと思い、今日思いを立てました。初めての道ですので案内をしてくれませんか。『一樹の陰の雨宿りとも多生の縁ともいうのではありませんか』今日のお情けに連れて行ってくださいませんか」としみじみと懇願されました。
範宴は、叡山に連れていって欲しいとの頼みを、「叡山は舎那圓頓の峰高く止観三密で谷深く五つの障りある身は入山できません。また法華経においても女人は垢穢にして仏法の器にあらずと説いています。さらに伝教太師結界の地と定めています『浦山しくも登る花哉』と詠っています。叶はぬことと言っています。これよりお帰りください。」と女性に告げた。女性は涙ぐみ、力なきと聞くものかと、伝教太師ほどの智者は、何と一切衆生悉有仏性の経文によると、男女は人畜に近づいてはならない。この叡山には、畜類に至るものは棲んでいません。圓頓の教えに女人を除かなければ実の圓頓ではないというのでしょうか。十界十如の止観も男子に限りとするならば十界は皆が皆、成し遂げられないのですか。法華の中にも女人は器にあらずと説きながら龍女は成仏を許された。胎蔵四曼の中にも天女を嫌うことなく三世(過去-現在-未来)の仏にも四部の弟子がいらっしゃいます。そう結界の山と言われるなら登りません。私が登れないなら私の知っていることを差し上げるまでです。それから少し私の持っている物があるので、御坊に差し上げます。袖より白絹の包みから物を出し、これは天日の火をとる玉で一天四海の中 日輪より高く尊くはないが土石より低く陋しいものではありません。天日から火を貰って灯としてください。いやしい土石の玉に写って闇夜を照らす宝となります。仏法の高根の水も唯峯にだけで何の用にもならないかも知れませんが谷に下るときは下桟を潤すと思います。千日の後に必ず思い出されます。玉をおそばにおいて木陰に立ち去ってしまわれました。その後範宴29歳の冬、殿下の連れあい(婦人)になられた姫の名を玉日と言われていることを知った。
天日の火を明玉に移して一切衆生の迷いの闇を照らして五障三従の女人ことごとく引導せよと教えています。かの玉を授けた化女は功徳天女(観世音(かんぜおん)菩薩)です。同年の春、阿弥陀普賢の木造2体を彫刻し聖光院において座主慈鎮和尚を上首として天台の高僧100人を招集して17日の法華八講を厳修した。はじめ3日は国家安泰の御祈祷、中2日は大小の師恩報謝、末の2日は父母及び養父母の日々の福を念じたものでした。これは止観の常座常行三昧です。同年秋、叡山西塔に一切経堂の建立をしました。かようにして両三昧の本尊弥陀普賢の2体を移し共同の本尊としたものです。
法然上人(1133~1212)は、美作国に地方行政官の子として生まれる。幼名・勢至丸という、9歳の時、父は郡・村の抗争に巻き込まれ夜討ちに遇い命をなくされました。無残にも一家離散の悲しい出来事の中での父親漆間時国の臨終に際し、枕辺での「敵を恨んではいけない、出家して、敵も味方も、共々に救われる道を求めなさい。」その言葉が生涯を通じて忘れられないものであった。13歳で比叡山に上がられ15歳になった時に出家されました。
月影の いたらぬ里は なけれども ながむる人の 心にぞすむ(法然上人御歌)
阿弥陀さまから智慧や慈悲の限りない光は、あらゆる世界の隅々を照らし、お念仏を唱える人々を一人残らずすべてを掬いとってくださいます。念仏三昧、そのような日暮がしたいと願った讃歌である。
この世において、いかなるときも、
多くの怨みは怨みによっては、
決してやむことがない。
怨みを捨ててこそやむ。
これは永遠の真理(法)である。(法句経 五)
怨み言は、ほんの小さなことから起こると言われます。友人が「あいつが、お前のことを・・・・・こんなふうに言っていた。」すると、「あいつはそんな奴であったのか」と怨み心を抱きます。他人は、自分は裸で付き合いをしているつもりでも、決して丸裸となることはできません。相手に自分の都合のよい面だけを見せようといつも努力しているのです。八方の相を見せようとしています。相手もまたその中の自分に都合のよいところや最初に感じた部分だけで、その人物を「あの人は・・・・・このようだ。」と決めつけてしまいます。人は常に相手の受け取り方によって勝手に判断して受け取ります。中でも、「あの人は・・・・・こうだと」大きな声で伝えると、あの人はそういう人であると先入観が生まれ、それからの誤解は容易に解けるものではありません。人は誤解されっ放しで生涯を送ることが極めて多いと言われています。
それもさほどの事でなければたいした問題とならないのですが、その誤解が大きいと摩擦が生じたり、時には怨みが増幅し、大喧嘩や、闘争、戦争となることに発展します。逆恨み、落とし入れなど収拾がつかなくなります。そういうことも社会では常日頃多かれ少なかれ茶飯事のように生じています。
そこで、恨み心を何とか収める方法はないものかと考えるのです。個人と個人の怨みは、喧嘩となります。個人から集団へ、集団から民族へ、あるいは民族から国家へ、国家と国家の怨みは戦争へと発展します。このことを紛争と言ってよいと思います。これら紛争を何とかならないかと思ってみてもなかなか解決ができません。多くの怨み心は、概ね日常生活の中で解決していくものですが、一端歯車が狂いだすと憎しみが生まれ、怨み心となって、親と子、嫁と姑、やがて夫婦へ。そのような場合でも、その当事者がなくなるとあれだけの骨肉の争い、憎しみ、怨みも消え去り逆に懐かしい思い出だけが残っているように見え、本当の心の底から怨んでいなかったのではないかと思うほどです。
勢至丸(法然上人の幼名)、9歳にして、無残にも一家離散の悲しい出来事の中での父親漆間時国の臨終に際し、枕辺での言葉が生涯を通じて忘れられないものであったに違いない。
親鸞は、1207年の弾圧までの6年間法然上人の草庵に通った。法然が見守る中、吉水の草庵に集まった弟子たちに、論争を仕掛け、青年僧の碩学ぶりを見せつけた。比叡での修学とともに法然門下僧として専修念仏の教えを学び意気盛んな時代であったと思われる。念仏僧としての頭角を現したのはこの時代であると思われる。今日で いへば、官学での学僧としての一人者であったと思われる。
【建仁元年3月中頃法然上人を訪ね吉水へ】
建仁元年正月6日~8日まで聖光院で法華八講及び止観両三昧が行われ、出仕し叡山東塔無動寺の大乗院に籠りました。範宴小僧都は、密かに固い誓いをもって六角堂の如意輪観世音の百日参籠をたてていました。
先年建久3年秋、河内の国磯長の里にある聖徳太子の御廟に参籠した時、夢の中にて皇太子に会いお告げを頂戴したがただ何となくご返答を戴いただけで 如意輪大悲の尊像が現れ「善い哉 よいかな 汝が諸願将に満足せんとすれば、善い哉 よいかな我が願いもまた満足する」と言い残され 突然尊像は消え去った。
範念は歓喜の涙に咽び、益々太子の深恩を感じ、この思いに従って六角堂へ百日の参詣を決したのである。大乗院から六角堂までは約三里半(約10キロ)、この時風雨霜雪は身に凍みる、また、西坂赤山越えは極め付きの厳しく、そそり立つ険しい谷、川越えである。
六角堂頂法寺の観世音は、範宴が最も尊崇する如意輪尊である。同頂法寺は、聖徳太子が堂宇を建立したものと聞けば、大唐伝来の如意輪像であり、深重に祈り誓えば願い聞き届くに違いない。正月九日から夜な夜な通い一日も欠かさず夜々を重ね、四月半ば九九夜の満月の暁に睡眠に「汝末代濁世の凡夫 出離生死の要路を求めんとすれば『念仏の行に勝れる法はない』この大法を弘通なされるお方は法然坊と言い、東山吉水にて説教がなされている。」
範宴は、法然上人を訪ね多年の思いを述べ「念仏の奥議」を尋ねて法然上人の門下生となり、「不断煩悩得涅槃。凡夫直入の真智。」諸善万行は自力のはからいであることを学び、自他の化益は名号の一体にあり、師資相承一味の安心にあることを知見する。愈々一向専念の行者となった。この時、法然上人から、範宴を改め綽空と名ずかった。
範宴は、法然上人を訪ね多年の思いを述べ「念仏の奥議」を尋ねて法然上人の門下生となり、「不断煩悩得涅槃。凡夫直入の真智。」諸善万行は自力のはからいであることを学び、自他の化益は名号の一体にあり、師資相承一味の安心にあることを知見する。愈々一向専念の行者となった。この時、法然上人から、範宴を改め綽空と名ずかった。
事後法然坊源空上人から、範宴の学びは今日まで全て聖道自力門である。浄土他力について学ぶこととなった。他力摂生(摂生とは規律ある生活をすることの意)の深旨を受得し(深旨を受得とは趣を尊ぶことの意)凡夫直入真心を固く決心し 自力難行を捨てて他力易行の大道に入り一向専念の行者となった。
法然坊源空69歳、範宴小僧都、改め綽空29歳(建仁元年3月14日)であった。
法然上人の許しを得て、範宴少僧都改め綽空(親鸞聖人)は、法友に呼びかけ、およそ380余名の前で、「信」と「行」の不退について、述べられました。
「本日は御師法然上人の認可を頂き、皆さんにぜひお尋ねしたきことがございます。今、ここに『行』と『信』不退について思うところを説述させて頂きます。何方も自分の信念にも基づかれて、お入りください。」と、おっしゃいました。「不退とは絶対の幸福のことですから、その絶対の幸福になる行(念仏)でなれるのか、はたまた、信(信心)でなれるのかという問が行不退か信不退かと言うことと思われます。 釈迦出世の本懐、十方衆生の掬われる弥陀の本願は、念仏を称えれば助かるという誓いなのか、『信心』一つで掬うという誓いなのかと謂う問題です。」と続けられた。
範宴(親鸞聖人)の投じられたこの問題は、法然門下380余名を驚かせ、戸惑いさせる大問題であったのです。「すでに本願には、至心、信楽、欲生の信心と、乃至十念の念仏とが誓われていますし、法然上人は『選択集に、弥陀如来、法蔵比丘の昔、平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんがために、造像起塔等の諸行をもって往生の本願となしたまわず。ただ称名念仏一行をもって、その本願となしたまえり、また、『名を称すれば、かならず生ずることを得、仏の本願によるがゆえなり』とあります。」と述べられました。
「ここで、もし皆さんが、『行』と思う方はこちらに、『信』と思う方はあちらにお座りください。」とお願いされました。これらのご文が、多くの法友の脳裏をかけめぐったことは想像に難くありません。そして何を今更、信行両座に分ける必要があろう、念仏(行の座)に限ると、心中叫んだことでありましょう。果たしてその実、決然として信不退の座についた者は、信空上人と聖覚法印、熊谷蓮生房の3人しかいなかったのです。その他の380余人は、その去就に迷い判断に苦しみ、一言ものぶる人がなかったと、『御伝鈔』には記されています。
残された多くの法友は、「法然も信不退の座につきましょう」と、法然上人も、また信不退の座につかれました。多くの法友は、『信・行』の両座に途惑い 座に着くことが出来なかったと言われています。一応は驚いてへり下りはしましたが、それは自分らの信心の不徹底さを懺悔してのことではなく、「よくもお師匠さまの前で大恥かかしてくれたな」という範宴(親鸞聖人)に対する憤りの後悔であったと思われます。これが原因で範宴(親鸞聖人)は、法友からことごとく白眼視され、ついには聖人の恩知らずと罵倒されるようにまでなったと言われています。
範宴への攻撃も、孤立無援も覚悟の上で、範宴はなぜに380余人の法然門下の中に、「信・「行」両座を分けられねばならなかったのか。いくたびも廃立を先として信心正因を明示されても、「行」に迷い、「信」に惑い、易き人々はまたしても念仏に腰を据えようとするものと思われたからです。
ところが法然の弟子になってから間もなく、「念仏」だけで浄土に往生できると説く専修念仏が弾圧される1207年(建永二年)に事件が起きます。これを法難と言います。
法然は、阿弥陀仏は、すべての人を掬い摂ろうとする願い、「本願」は阿弥陀仏が選び取った「選択」だから私たちは「なむあみだぶつ」と唱える。念仏という唯一つの行いによって浄土に生まれることができることを体系的に一貫しています。この「選択本願念仏集」法然上人の集大成と言えます。
多くの人たちは、この念仏に惹かれお公家衆をはじめ武士たちが法然のところ日夜詣でました。法然も多くの方と接するために教法を説経しました。ところがそれを良しとせず他宗派から非難轟々であった。比叡山延暦寺の僧たちから、「法然の専修念仏をやめさせろ」とクレームがやってきました。法然は危機感を持ち「七か条の制誡」を出して軽率な行動を禁止しました。
1205年(元久2年)10月南都興福寺の僧が後鳥羽上皇に勝手に宗派を作ったと訴え出た。この訴えは朝廷も無視できなかった。法然はお念仏を布教活動している行空を破門しました。それでも念仏への弾圧は強く最悪の事態が起こりました。1206年(建永元年)後鳥羽上皇が熊野権現に参詣中に、上皇の女官が無断で出家してしまい上皇の怒りが大きく、法然の弟子の住蓮、安楽が女官を唆した罪に処され死罪となった。これを法難と言います。この弾圧で4人が死罪、6人が流刑となった。1207年(承元元年)2月法然上人は土佐国(四国・高知)へ僧の資格を奪われ藤井元彦という俗名で流罪となり、親鸞は、越後居多ケ浜(新潟 上越市)へ、僧の資格を奪われ「藤井善信」と言う俗名を与えられて流罪となった。範宴(親鸞)は、流罪が許されるまで近辺で暮らした。配流の地、越後国で流人として生活した5年間は、自分の背丈ほどの豪雪の中、命を守る為に太地を耕す生活は、法然上人のみ教え「ただ念仏」に生きることはできなかった。顧みればこの流罪は親鸞の信心が苦難の生活の中で確かめられ鍛えられ「本願念仏の一道」がより確かめられたものと思われます。また、法然上人のもとで学んだ時代以上に修学に励み、教化活動に専心したにちがいない。やがて親鸞は、この地で恵信尼(土地の地主の娘)に出会い結婚し、子供が生まれ、家族のつながりができた。
さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし
人間のありのままの相をはっきりと見定められ、人間は生きるためにはどのような振る舞いもするという徹底した人間観を示されました。妻子と共に生きる生活は、いかに賢く装っても、人間の業をさらけ出すほかない身の愚かさを深く思い知らされました。親鸞は、このような愚かさを自覚し、その生涯を自らを「僧に非ず 俗に非ず」と「愚禿釈親鸞」と名のりました。
第三章
関東での暮らし
1214年(建保二年)、42歳の時、ことの縁にしたがって、妻子供に関東の地に旅立ちました。その途中、信濃国善光寺に参詣し、100日の間逗留され、その間比叡山で堂僧として修道に励んでいたので、善光寺の取り計らいで堂衆として内陣での読誦が許され生活の援助がなされたと言われています。その折に善光寺御本尊に松の枝(お花松と呼んでいます。)を奉納されました。松は冬にも緑を絶やさないという特性を、末法にも滅びない阿弥陀仏の本願の象徴と見立てたものと思われます。また、戸隠へも出かけ、坊室に招かれ読誦し多くの参詣者に笹の葉に名号『南無阿弥陀仏』を揮毫し振舞われました。これを「笹名号」と言われています。
1211年(建暦元年)に流罪が許され、信濃国善行寺から上野、武蔵を経て常陸の国 笠間の稲田に移住し、以降約20年にわたり関東一円で門弟の育成と多くの民への布教活動を行います。
親鸞は、常陸の国小島、稲田に居を移した。最も長く住んだのは稲田と言われています。現在、稲田の西念寺で恵信尼(親鸞の妻)は子供たちと共に手探りで生活しなら念仏の布教に励み多くの門弟を育てた。
親鸞が関東で育てた門弟たちについて興味深いことがあります。
親鸞一家が住んでいた所が稲田の中心にした約40キロの円内の中に入ることである。それは、常陸の国から下総の北部(茨城県)、下野国の東南部(栃木県)の地域である。
人間が一時間に歩く距離は凡そ4キロ程である。朝7時頃から夕方5時ころまで歩くとすれば、10時間も歩かねばならない。親鸞は朝早く家を出て目的地に到着して、夜に教えを説き翌朝そこを出立して稲田に帰るという一泊二日の布教活動を日常としているものと思われます。親鸞が布教の対象としていた武士や農民たちは、昼は農業に従事していて忙しい。親鸞がじっくり教法を伝え・教えを説き、彼らの親しみを深めることができるのは、その夜になってからと考えた。
承久三年秋の頃 聖人49歳の時、常陸国・稲田の御坊に住んでいて当国国府・柿崎などで教化活動をしていた。いつも板敷山(稲田より4キロ程の筑波山を越えたところにある)へ行き来していました。板敷山への近道は下野下総下門を通って行くとよい。当時、当国那珂郡塔野尾という所に役(役人)の優婆塞(出家せずに仏門に入った男)の遺弟で播磨の公辨圓という修験者が住んでいた。兄さんは聖護院の身内で知徳兼備な方であったので佐竹末賢氏が招聘し、祈願所の先達となった。後には豊前の僧都となった。国中の山伏の司として末派12坊を統括支配した。多くの人たちから尊崇されていた。役(役人)の小角(また正覚ともいう。妄惑を断絶して仏果を成就する眞正の覚知のこと。正しい悟りの意。)の再来といわれるほどであった。現在は辨圓がその任(役人)を引き継いでいる。遺弟の辨圓は、聖人が当地でご教化を始めた頃から村民、庶民一同が聖人を生きた如来と尊ぶ様子を見て、これは修験道が滅びてしまうと聖人の教化を妬み末派の修験者を集め、「いでや我が行徳を以って廃せんと。我慢の肘をかかげ密かに板敷山に登り山の上に壇上を構え呪詛調伏の法を修しけるが如何なることにやこれまで辨圓が修するところの『行法一度』も験あらざる事なきに」と。聖人の教化益々人気が上がる一方である。辨圓は、とても聖人のお話にはかなわないと知って、密かに聖人の殺害を企てた。聖人の通り道である山腹で待ち伏せして殺害しようと剛毅な眷属を集めて刀、槍長及び弓矢を持って板敷山の谷間に隠れて聖人の来るのを待った。ところがこの道を次の日も次の日もまるで隠行の術を使うかのように聖人は平然と教化を続けている。辨圓は、益々怒りをなし、稲田の禅室へ出かけた。出会頭で聖人と対面し、一太刀と振りかける、僧たちは弓矢を構えるが 聖人は恐れることなく悠然として立ち出でて、芝の扉を開けると辨圓に聖人が「如何なるお方か」と。その聖人の出で立ちを一見して、辨圓は聖人の尊顔を拝し瑶林稽樹(仏様のようなお顔)の如く慈悲柔軟の気性はさながら光風霽月(心が清らかで何のわだかまりもない心境のたとえの意)に辨圓はたちまち聖人に対する敵愾心は失せ、聖人に対する鬱憤は晴れ、辨圓いよいよ聖人の高徳、忍辱慈悲に触れ伏し刀、長槍などを捨て聖人憐れみを給いて、長く門徒に陪審し、信心無二の慚愧のありさまの聖人は、それ我真宗の法たるや仮令極悪罪の人なりとも弥陀成仏の本願なればわが身の過ちを深き嘆き一向に助け給えと申さん人は誰か往生を遂げんなり、これより報恩謝徳の称名を怠ることなくし、望みに任せて弟子となり法名を明法房證信と号す。以来聖人に随伴して給仕しながらもの柔軟で慈悲の姿となった。その後、駿河国松原で一宇を建立し上宮寺と号し、弘法教化に尽くした。
(一部分引用鸞聖人御一代記絵図之巻稲田之御幽棲亦板敷山辨圓之条・明治33年3月5日石田忠兵衛p.12)
1224年(貞応三年)(元仁元年) 52歳の時に常陸の国稲田の草庵で「教行信証」草稿が完成しました。執筆された60歳代から80歳を過ぎて精力的に加筆、訂正が行われ長きにわたって推敲に推敲を重ね老境に達してもいまだ衰えぬ学究心と精神力には敬服、感涙するばかりである。「教行信証」は、正しくは顕浄土真実教行証文類といい、「教の巻」と「行の巻」が1冊にまとめられ、「信巻」「証巻」「真仏土巻」各々1冊、「化身土巻」本・末の2冊に分けられている。本文は、半面8行、1行15文字前後で墨書で句点や漢字の声調、清濁を示す声点など、所どころに左訓(漢字の左側に付された訓。⦅訓とは、字句の意味を解釈すること⦆)や朱書も見受けられる。その筆致は力溢れた味わいの深い文字の姿である。
「教行信証」、「行の巻」の末尾に七言120句の偈文が真宗門徒の馴染み深い「帰命無量寿如来」で始まる「正信念仏偈」(正信偈)である。日常的に朝夕の勤行などで読誦・唱和されている聖教である。
教行信証(顕浄土真実教行証文類)は浄土真宗の最も重要かつ根本聖典です。『ご本書』『ご本典』と呼ばれている聖教です。
親鸞の門弟の中で、「二十四輩」と呼ばれる人たちがいる。その内、第一人者は親鸞が最も信頼した門弟の一人性信(房)である。ここには親鸞聖人の御真筆の坂東本「教行信証」があります。そのゆかりの寺を報恩寺と言います。第2は、真仏(房)<栃木県真岡市から三重県一身田へ移住)>で専修寺(真宗高田派本山)と言います。第3は、順信(房)で、無量寺(茨城県はこた市)です。この寺には、浄土真宗から見た法然上人の伝記「拾遺古徳伝絵」があります。
二十四輩にはなっていませんが「歎異抄」の著作者・唯円房(報仏寺・水戸市)や親鸞の孫で本願寺二世の如信の墓所が法龍寺(茨城県久慈郡大子町)にあり、ここには聖徳太子像もあります。
第四章
帰洛の途・帰洛後の暮らし
1234年(文暦元年)8月の中旬、聖人は箱根を越え駿河の国富士郡安部川に着いた。この河は東に富士川があって、西の大井川と隣り合わせである東海道の駅路である。
時に霜雨(ながあめ)で満水となり船であっても容易くは渡れない。ここにきても渡る方法がない。親鸞聖人は笈(おい)<木箱でできた背負子・リクサック>を降ろしてしばらく様子をうかがうこととした。後方に尊げな僧一人が忽然とおられ、聖人に向かって「この河を渡り給わんとするなら、私が浅瀬をよく知っているのでお導きしましょう。」「お供の方々も愚僧についてお渡りください。」僧は聖人の手を取り先に行く。聖人は怪しみながらこれに従って渡っていきます。不思議や誠に浅く向岸に進んでいきました。やがて、西の岸につき、この僧は飄然として、聖人の笈を上から見入り、笈の中の如来像を見ると腰より下は水に濡れる程度であった。この僧は、この如来像に感涙教行して報謝の称号を唱えた。この像は、8年前に霞ヶ浦で感得したものである。聖人は「我に有縁の如来である」と。「稲田の庵室に安置したものであるが、ご上洛に身に着けて離さないものです」と。
遠江の国桑畑の専信房の方につき、専信坊のたっての願いにより逗留することとした。親鸞はここでも日夜怠慢なく教化活動をし続けられた。
この時は、伊達の善念房も一緒で、文暦二年改元があって嘉禎元年と号し、聖人63歳春2月に遠江の国桑畑を出立し三河の国碧南郡に着き矢作の宿の近くの柳堂薬師寺に入った。ここで37日の間ご勧化(教化)活動しました。尾張、三河国の道俗の方々が多く参集し聖人の法義を聴聞し帰依渇仰する者、例えれば 草の風に靡くが如しで あったという。この御化益に漏れる者がないように御勧化が日夜続けられた。この地が当三河、尾張の国の最初の発端地となった。
此柳堂は往昔聖徳太子。当国御経歴の折から。此地に柳の大樹ありしかば。是が本仿徨給ひ。今よりして500年の後。此所かならず群生利益の霊場となすべし。去るによって我此地を以って。柳堂と名付んと最も尊き勅により。その名を伝えて呼びならわせけるが何時の頃にや有けん終に小堂を立て。これを柳堂薬師寺と号しける。
尤も此所は無住にて有しなるべし。一書に住僧教圓と有れども。教圓は本證寺の住職なり。
(親鸞聖人御一代記図絵巻之四 柳堂御教勧之條 明治33年6月20日七版から)
柳堂で説教の最中に、三人の僧が説教の終えるを待たずして突然大声を発し、「人の思いに厚い薄いの二つありますが、法は、必ず一つではない。元来世運に従って移り変わると釈尊多端に法に示しています。例えば『大乗實頓の法』の如き。一機一縁の益となります。我ら衆生はその行を修し、その證を得るといえども在家造悪の凡夫は大変な苦行を修しなければならない。故に今私たちが弥陀本願の教行は如来出世の本懐となれば万機不易大道です。たとい十悪の凡夫、五逆の罪人であっても即徳往生住不退転ということになります。ですから我らは称名を歓ぶものです。いとも蜜かにご教化くださり我衆人随喜の涙を流し一同称名を唱えるものです。」三人の僧はこの聴聞をして、我執を捨てて真宗念仏に帰依しました。また、当国平田の庄の領主安藤薩摩守は聖人の高徳を慕い剃髪し念信と号し聖人のお弟子となった。また、念信房の兄、当国安静の城主安藤権守も聖人帰依し剃髪し園善と号しお弟子となられた。聖人は、杖を泊めてから凡そ40余日に及びましたが、やがてこの地をご発足され尾張、伊勢国を出立された。
一説に、聖人は、尾張の国春日井郡、日比野村雲善寺(天台宗梵区)に入り休息しますが、この時住侶は、聖人の説教を聴聞し大いに歓喜随喜し改宗し真宗門徒となり親鸞の弟子となった。聖人ご出立のみぎりには川の瀬踏みをなしてご案内いたしますと。お誓いしました。次に、聖人、同国小田井の西方寺原天台圓宗の佛場)に入る。当住持玄理師は聖人の高徳を慕い「大乗実頓の法」を捨て真宗易行直入の門に弟子入りとなった。これを瀬部の七人門徒と言っています。その由来はその時聖人木瀬の道場より日比野に移り足近の渡りを越えるとき船に乗り渡られます。川の瀬多く水高くみなぎり渡るに大変困難であった。その時七人の同行が身命を捨てて背踏みし聖人を越えさせた。
聖人の志の深きを感じ大浦にご逗留の間に七人の同行へ名号の書写を与えた。その子孫達はいずれも堂宇を営み御真筆の名号を以ってご本尊としています。瀬踏み部を略して「瀬部の七門徒」と呼んでいます。以後美濃の国、伊勢国で教化活動を続けながら京への帰路を勤しんだ。
親鸞63歳(1235年)頃、常陸国・稲田から帰京し移住する。もともと京・洛中で生まれ、流罪になるまで洛中で住んでいた親鸞には故郷である。老いを迎え故郷へ帰ってきたこととなる。なぜ帰洛したのかは謎が多い。親鸞は、越後から常陸国へ移住したのもその理由は明らかではない。何某を頼って移住したと言われているだけである。親鸞は一人の仏教者として生活の全体像を知りたいと考えていたのではないか。京都へ帰った親鸞は、家族を常陸国に残し独り住まいとなり暮らすこととなる。
法然上人が亡くなってから24年も過ぎ、親しかった熊谷蓮生、空阿,信空、長西房等吉水時代の年長のお方は相ついて世を去り、聖光房は鎮西(浄土宗の本派)を去っていない。論客の隆寛律師もいない。吉水閉鎖の時の天皇も、「承久の乱」があって左遷され、源氏が滅び北条の天下になっていた。親鸞は世の移り変わりの速さを知ったのであろう。
常陸国・稲田での教化の仕事を不満足とし、もう一度内面的に立ち返り、自信教人身の報恩の生活から「念仏一念」の生活に没入したのであろう。その傍ら、時に常陸からの門弟の便りや、田舎の人たちから時折送られてくる布施物に自分の思いを丁寧に書き留めた文を交わすのが日課となった模様である。浄土真実教行証を始めとし和歌、讃歌の編集「浄土和讃」「高僧和讃」の叙述・編纂活動に明け暮れていたに違いない。孤独な日々であったものと推察するものである。
門弟の書状や京まで訪ねてくる者から、関東での慈心房善鸞(親鸞の長男)が異議を布教し、父から秘密の口伝があった等と虚構して、門徒たちを攪乱した。そして父が継母(貞信尼)に言いたぶらかされたと言いふらし、鎌倉の役所まで讒訴したりした。そしてついに父子義絶となった。
親鸞は、帰洛後は定まった住居もなく、縁をたよって所々に身を寄せる生活をしていた。その生活ぶりは、関東の同朋の人達からの僅かな貢物(御志のもの)に頼っていた。ここでの生活の中で、親鸞は自らの信の内観に徹し、その磨かれた信心を著作に、また書簡に表明していったのである。その多くは、関東の同朋を念頭にして書かれたものである。同朋の信仰上の書簡は指南書となるように極めて丁寧に書き綴られ、返書されている。また関東門侶らが、信仰上の課題を教え請いはるばる上洛し親鸞のもとへ尋ねてきたもの者も少なからずあった。
仁治二年聖人69歳のとき、遠近の門弟等が親鸞に面謁したいと言って手書き物を持って訪ねてくる。教示にあずかり感涙し帰参する。しば 々 門侶、村の人が教えを請いにやってくる。仁治三年聖人70歳の5月、入西房は予て聖人の御壽像を写したいと心から願っているが願いが叶うかは分からないと不安に思っていた。聖人はその志を見抜いて、その思いを許すとご返事されました。七条界隈に禅定法橋という仏画絵師がいます。彼に頼んで写さしてもらいなさいと言われ入西房は大変に喜んだ。入西は法橋と一緒に行って聖人の尊顔を拝することができる。禅定法橋は涙して言うには、「昨夜、夢見た! その状は、この一人は善光寺本願の御坊であった。この僧は、聖人の真影は生身の阿弥陀如来であること間違いないから有難くも礼拝尊敬をいたします。聖人のご容貌を覗うと夢の中での高僧は露ほども違いない。」と夢は、仁治三年5月の夜のことであった。やがてご尊容の模写がかなった。
聖人71歳のとき、改元となり寛元元年、高僧和讃、浄土和讃等の草案を著された。同三年73歳から74歳の3年間に東国の門侶がときどきご機嫌伺にやってきた。
寛元五年に改元あって寛治となり、翌寛治二年76歳の正月、高僧和讃、浄土和讃を推敲に推敲を重ね清書されました。聖人77歳となったとき建長と改元、建長四年80歳の3月4日文類聚鈔の著述、同五年81歳のとき愚禿鈔の草案、同六年82歳のとき正像末和讃等を叙述され同8月には清書されました。同八年84歳になった春、いささか体調を崩され顕智房、蓮位房が看病に尽くした。
正嘉二年9月正像末和讃の清書を終え、同12月善法院において顕智房へ21通の口決を相伝された。正嘉三年(正元と改元)87歳4月5日に西洞院で真空房へ唯授一人に口決を相伝された。89歳、弘長元年30余通の口決を相伝された。
親鸞は90歳まで生きる人だけに普段はいたって健康であったが弘長二年11月の下旬ころから少し体調を崩す、これといった病ではないが、老衰で急に病状が悪化し11月28日に遂にその苦労が多かった長い生涯を押小路南・万里小路東の住居で病死、入滅した。
越後の恵信尼は既に高齢であったので上洛にはかなわず、代参に益方が上洛し、親鸞の臨終を看取った。それから弥女(覚信尼)も在京のこととて臨終にはせ参じた。門人では、顕智、専信、蓮位、了阿他数人が臨終を看取った。長男善鸞は、父である親鸞から顕智房を通じて丁寧に断ったという。
親鸞は「かの子 憎らしとてへだつるに非ず、我が方の讎なるを知りながら、由なき事」と言って斥けた。三条坊門の北、富小路の西にあった善法院から出棺し、賀茂川を渡り東山の麓、鳥辺野の南、延仁寺で荼毘にふせられ、遺骨は同じ山続きの大谷に埋められた。「われ死なば、躯は賀茂川に入れて魚にあとうべし」と遺言された。
親鸞聖人の教えが今日に伝えられたのは何故か。それは教えに帰依した多くの民、百姓、貴族、武家の人たちと共に教導に尽くしたからである。以下所見を述べることとする。よき先生とよき生徒の共同作業であったの関係ではなかろうか。
如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
骨を砕きても謝すべし (恩徳讃)
(大意) “阿弥陀如来の高恩と、その本願を伝えたもうた方々(師主知識)の大恩は、身を粉に骨を砕きて
も済まない。微塵の報謝もできぬ身に泣かされるばかりである”まことに仏恩の深重なるを念じて、人倫の哢
言を恥じず(教行信証信巻)「広大無辺な弥陀の洪恩をおもうと、どんな非難攻撃を受けても、ジッとしては
いられない」
と不断に報謝の念に燃え、布教に全生命を投入なされた親鸞聖人に、心底より信順し共に正法宣布に挺身
したお弟子がなかったはずがない。『親鸞聖人門侶交名牒』などには、聖人に親しく教えを受けた数多くの門弟の名が記載されています。その数は、現在ある数本の『交名牒』と『二十四輩』(覚如上人が康永三年に関東に巡教された時、提出させられた連署)や、聖人が京都に帰られてから、門弟たちに出されたお手紙にみえる名前などを重ね合わせてみますと、60数名から70名近くの熱心なお弟子があったことが分かります。真仏房、性信房、順信房、如信房、顕智房、唯円房、蓮位房、明法房などそうそうたる方々ですが、その分布もかなり広く、たとえば真仏房は下野国高田に、性信房は下総国飯沼に、順信房は常陸国鹿島に、如信房は奥州大網に在住して、布教活動していたことが知られています。そのほか、会津、和賀、藤田、武蔵国太田などにも、門弟が散在していたことが分かります。これらの弟子たちは、みな親鸞聖人が法然上人に対して抱かれていたと同じ敬慕の念を持っていたことは、蓮位房が夢の告げに、聖人は弥陀の化身なりと感得した、という伝記などでもよく窺えます。
『歎異抄』(唯円房著作)の中で、”親鸞は、弟子一人ももたず候”(歎異抄第6章) 「親鸞には、弟子など一人もいない」と、言っているが、これは歴史的事実を言ったものではない。親鸞は、これらの人たちを自分の弟子だとは、決して思ってはいられなかったということで、これらの人たちは、親鸞から教えを聞いて後生の一大事を知り、聞法しているように見えるが、本当はそうではない。彼らが真剣に聞法求道しているのは、全く弥陀の独り働きなのである。親鸞の力でも計らいでもない。全く阿弥陀仏のお計らいの結果なのだ。親鸞の力や計らいで、弥陀の本願を信じ念仏するようになった人たちならば、親鸞の弟子とも言えよう。しかし、阿弥陀仏のお力によって掬われた人たちであるなら、私の弟子というわけにはいくまい。共に弥陀の願力によって掬われる、同朋、同行というべきである。決して師弟の間柄ではないのであるという、聖人の絶対他力の信心を告白が、「親鸞は弟子一人ももたず候」のお言葉となると言えます。
親鸞聖人に随伴した主なお弟子は真佛房 、蓮位房、顕智房、性信房、善性房 その出処は以下のとおりである。
(1) 真壁真佛房(24輩の一人)
平氏で、桓武天皇の苗裔(後裔・子孫)であり鎮守府将軍国香卿の後胤で下野の国司国春の嫡男である。俗称椎尾弥三郎春時と号している。国春卿夫妻には一子なく、常州椎尾山の神に祈り霊験を得て春時を養子に迎え椎尾の家督を14歳で継いだ。春時は頭脳明晰で父国春を助け政道に励んだ。聞き伝えによれば、百姓を始めその判断の明白さを恐れ聊かも謀議を企てるものはなかったという。心広くその上欲張らず愛隣の気性深くたとえ重罪人であっても殺さないことを信条としていたという。
ある時、父の国春は春時の器量を試さんがために「それ一国を司る職は、善ある者に褒美を与え、悪人には罰を与えることは政道の常套手段である。お前様は裁断にあったって如何なる死罪の者をも理由をつけて死刑を免ずる。死罪となるような罪を犯す者が多くある場合、大罪を無くすには、お前様の心・意を申してみなさい。」春時応えて申すには「私は若輩の身ですので政の深いことはわかりません。しかし私は日頃から思うことは閻魔王また六道の罪を決断する職として人を地獄に堕すこと、それとも人の命を殺すのを見て助けられないと言うことこそ、閻王の庭に罪人の絶えたる間もなく、また仏は慈悲の職として如何なる悪人であっても救いたい。それに仏の浄土に悪人はいないと聞いています。そもそも一国の民は閻王の厳しき政道を好んでおりません。仏の慈悲を願っています。私は唯百姓万民の好むところに従いたいと考えています。」父国春はその意に伏し、我が子ながら賢者の器量ありと大いに悦んだ。
国中の人々がこのことを聞いて、「天晴れ民の父母かな」と人たちから末永く尊崇されと言われています。また、15歳の頃より親鸞聖人の徳を慕い時折禅坊を訪れ舎那弘願の深意を聞き、時には他力佛乗の深意を窺い16歳3月中旬聖人の稲田草庵にやってきて重ね々々他力法門の奥議を修学されました。聖人は、その奥議こそ「他力には義なきを義とし、様なきを様とすること」春時感涙し後ろを向って涙を拭き、聖人に礼を尽くし帰った。
(2) 下妻蓮位房
俗姓源三位頼政四代目の後裔、大蔵大夫宗仲の息男源太大夫宗重・武士の嫡男で幼年から親鸞と親しくお弟子となり聖人配流の時から給仕とし同行していました。後に師の命により小島の三月堂に住し、専ら教導に尽くしていたが、その後小島丹波入道善下に三月寺を付属となって上洛し随伴給仕を申し付けられた。
一説に、蓮位は源頼政の末孫兵庫頭宗重は常陸国真壁郡下妻に住した。建保七年一門の右馬頭頼茂が謀反を企て宗重も同意をしたと言うので召し捕らわれ処刑させられるところ、聖人はこれを深く憐れみ助命を乞い頼重の嫡男蓮位を弟子とし剃髪し、法名を蓮位房と名付け聖人の常髄給仕とし純一無二の従弟となった。
(蓮位房の霊夢)
『御伝鈔』上巻4段や、『口伝鈔』13条の蓮位房の霊夢を記しておきましょう。建長八年の春、親鸞聖人は84歳のご老体で、いささかご病気がちであった。聖人昵懇のお弟子・蓮位房と顕智房がご看病申し上げることが多かった。そんなある日、蓮位房が尋ねた。
「顕智房殿、あなたはわが聖人を、いかなるお方と思っておられますか」
「私は、まさしく仏のご化身と信じております」キッパリ、顕智房は答えたが、どうも蓮位房は、即座に同意しかねるようだった。「私もある時は、そう感ずることもありますが、ある時はどうだか、そうでもなさそうに思えることもあります」正直な告白に顕智房は、微笑しながら確信ありげにささやいた。「そう思われましょうが、そのうちにきっと、お分かりになりますよ」
ところが2月9日の未明、蓮位房は明らかな夢を見た。聖徳太子が親鸞聖人を礼拝して、こうおっしゃっているではないか。「私は、大慈大悲の阿弥陀仏を敬って、礼拝いたします。あなたは、微妙の教法を、この五濁悪世界に弘め、あらゆる衆生に、必ず無上覚を得させるために、来生なされた尊いお方であります」夢覚めた蓮位房は驚いた。さては、わが聖人は阿弥陀仏のご化身であったか、いままで、さまで尊く思わなかったことのあさましさよと、感泣した。それにしても、顕智房は不思議なことを言う人よ。この人もまた、ただ人ではなさそうだと、驚いて語ったといわれています。これらの霊夢や、「観音の化現」と「弥陀の化身」の相違について、覚如上人は次のようにおっしゃっています。「祖師聖人あるいは観音の垂迹とあらわれ、あるいは本師弥陀の来現と示しましますこと明らかなり。弥陀・観音一体異名、ともに相違あるべからず」
(『御伝鈔』上巻41段「口伝鈔13条」の蓮井房の霊夢)
(3) 井東顕智房
素性は定かでないが神の子の子孫と言われてる。越後国に余語府軍の後胤で基知という童子がいた。常に富士山に詣でて天地の畔に1人立っていました。五,六歳ばかりにして髪は長く垂れ二重瞼をした可愛い子であった。「我はこの獄神の子で神の子だ。」と。平氏の子で読み書きに至っては一を聞いて十を知るほどに利発であったと言う。ある日、国上寺の僧順範がこの童子を見て、「この子は神の子ではない、菩薩の応現である。凡人の家で養うべきではない、この僧が養う」と願い乞い弟子とした。この童子の人柄は聡明にして敏腕である。順範は「我如きの不徳なる者の弟子とすべき童子ではない」と。自ら叡山に伴いて東塔の覚賢僧都の坊に入れ出家得度をさせた。覚賢僧都と順範の二人の名をとって国上の君賢順と号した。こうして賢順は叡山で学業日々怠らず、好んで法華、華厳経を読み概ね覚醒し叡山で10余年を過ごし、師父を思いて故郷の越後に帰りました。この時順範は既に寂し、賢順の父母・基知夫妻も逝くなり賢順は極めて悲嘆にくれた。学問修行もいまだ未熟であり、師父、父母失い無常の頼みであり、速やかに名利の罠を抜けて偏に出離の直道に趣かんと決意を顕わにした。
ある日越後国の国分寺に参詣に出かけた時、聖人の御教化の利益を話している人と出会った。これを聞いて賢順は直ちに下野国高田に赴いた。この時、聖人は下総を教勤していらしました。ただ真佛房のみが高田にいらしましたので暫く門下に留まり法門を聴くこととし自分の努力で、生死の煩籠(=わずらい)を出て大荒に昇り万人を引いて苦海を渡るの術。この頃近江桑畑の専信房がやってきて、同じく門下に留まることとなった。この二人は仲が良い朋友であった。国に帰って先週の道を修行しもう一度高田へ来て聖人に拝謁することを約す。出会うことを約束した。
去年の約束により、専信房、賢順房高田へきた。安貞二年5月2日、真佛房は二人を推挙し、聖人のお弟子となった。賢順改め顕智と名づかった。その後、昼夜聖人に従い浄土の教相真宗の奥議を学び師の命によって勢州を化度し教えに従いて叡山三井寺等に入いて舎那止観の奥議を学んだ。南都に移って華厳唯識(=宗教心理学)の奥深さを聞き知った。南北の諸師は彼の俊智を称賛した。仁治元年親鸞聖人より教行信証を相承(伝授)された。亦、師の命を受けて遠近の諸国を巡業し教化を続けた。建長七年聖人の真影を図絵され、親鸞聖人自身が筆を執って銘文を題した。尚且つ、教行信証の難解で奥深い問答の内12か所の詳しく解説を表した。後に親鸞聖人より文を戴いて「・・・顕智房は親鸞が再び若くなった・・・」と述べられていた。
(4) 飯沼性信房(24輩の一人)
俗称は大中臣、常陸国鹿島郡のお方である。幼名を悪五郎と言い、剛力無双勇猛強勢で心性狼涙であった。礼儀知らずで黄着、その上心なき振る舞いで荒くれ者であった。元久二年の春、18歳になって、諸国武者修行を志し国々を巡業した。紀州熊野権現を詣で、その帰り道都(京)に出てたまたま東山吉水に参詣した。その時法然上人の禅坊において、本願他力の法話が行われていた。弥陀超世、十悪の凡夫五逆の罪人も捨てずして救われるとの誓いをたてたならば悪逆の身をも顧みず偏に如来の悲願を信じ得れば一念称名念仏すれば決定して彼国に往生せんことさらに疑いない。その尊くもご教化でありました。聴聞の上下貴賤なく多くの人たちが門前に集まり錐を立てる隙間もなく与四郎(悪五郎)縁の端で聴聞していました。じっと聞き教わり善因今ここに顕われ始め聖人の教化ひしひしと胸に応えてそぞろにあり難き尊き事と感涙し涙溢れ聖人の御前に出て「敬って申し上げます。私は東国常陸国の者でございます。今までの所業で、物の命を殺し、人を悩ませ、悪逆の限りを尽くしました。仏法をお聞きしたのは今日が初めてでございます。このようにして罪深き私だに弥陀の大悲にてお救い戴くとお話し本当に嬉しくあり難く思うところでございます。」と。「与四郎を哀れと思い是非とも御弟子としてかかる悪人をご指導してください。」と懇願しました。法然上人はそのまま髷を切り堅固な信者となりました。
法然上人は与四郎が実ある志あると「さても、この世の中でこんな好青年がいるのか、善信房(当時の親鸞聖人の名)、与四郎をあなたの弟子とし、能よく教化をしてください。」「しばらく老年の源空に随伴し、年若く行く末のある人は 弘法の力にも成るべき者である。」いつの日か親鸞聖人の弟子となり得る若者です。この時、親鸞聖人34歳、与四郎18歳であった。
親鸞聖人は与四郎に対し、重ねて他力往生の旨趣をねんごろに教え、法名を性信と号しこれより親鸞聖人に常随し暫くお側を離れることなく配所(=役所)、坂本、稲田に居を置いた時も常に御身に付き添い貞永元年親鸞聖人上洛の時もお供をしていましたが、既に相州国箱根山において、聖人の仰せにより関東門葉(=一門)の一圓(=地区)に性信房に駐在を命じられ、名残惜しくも聖人の命の重きに従い謹んで承引し涙を流し、倶(=随伴の友)と親鸞聖人と別れ下総國横曾根に帰り専修念仏を弘通し、道俗の帰依した人たちで門前に市を開きこの地に仏閣を造営しいよいよ宗風を盛んとしました。また、多くの人が移住し飯沼という広き入り江となり四方の景色もとても良くなり、更に飯沼を埋め数十町の真ん中の仏閣となった。
京の都の親鸞聖人に事情を報告したところ大変お悦び、早速に報恩寺と許認可くださった。性信はこの仏閣で弘願真実の教法、専念称名の行業を説き広め、老弱男女あらゆる生業の輩が群参した。帰依信心する輩、親鸞聖人に増して教導され真宗興隆され益々栄えた。性信房は、親鸞聖人の最も信頼の厚い門弟であったと言う。
(5) 飯沼善性房(24輩の一人)
凡夫の胤ではない。人王八十二代の聖主(=極めて徳の高い人)後鳥羽院第三の皇子ですが叡山に登り出家して周慣と号し、修学の功績りやや秀でていたが頻りに隠遁の志あって叡山を下り諸国を行脚しついに下総国に行った。国主豊田四郎治親が許に逗留したが善因に値のしるしに親鸞聖人関東御化導の事を聞き建保六年御年20歳の時稲田に来て聖人の御教示を受けて御弟子入りとなり法名を善性と授かり貞永元年春、聖人60歳の時稲田の御坊を発足され、都に登る折、御坊(堂宇)を善性房に譲り渡した。このようなわけで善性上人は稲田浄興寺の御坊となり二代目の住職として専ら聖人の教法を弘通されることとなられました。文永五年8月20日70歳にして大往生を遂げられました。
米 房とは、僧の名につける接尾語である。例えば、身命房、坊とは、僧の住まいを言う。例えば、半僧坊。
何故我が家のお内仏には、裏書に錦織寺とある六字名号・阿弥陀仏がある 不思議なご縁であり、錦織寺(天王堂)の由緒を書き留めることとした。お内仏は、天保の時代に新調されたものであり、お内仏の荘厳もこの機のものなのか。幾世代前の当主が何かのご縁で錦織寺を参詣した折にでも買い求めてきたものではないだろうか。
この時代、天王堂および親鸞の帰洛のため性信房、善性房が代わって教化活動がなされている。以下のとおりである。
文暦二年4月23日美濃国より近江国・野洲郡木部村に入る。日すでに黄昏となり供の者が当村の天王堂に行き一夜の宿をお願いに上がったが寺僧に断られた。聖人は「娑婆はどこだって旅の宿ですね」と些かも愁いなく、天王堂の広縁によりかかり、笈を庭の松の梢に掛け一夜を過ごすこととなった。
その夜、七つ(五更=午前4~5時項)になって このお堂の本尊大聖多聞天が現れ、「私たちは貴方がここに来ることを久しく願っていました。あんたの笈の中にある如来像を安置し専修念仏の法を弘めてください。」と告命があったと言う。「我らは、聖人の法を聞こうとしていないと聞こえてきます。」
不思議のことに、当寺の僧侶並びに木部村の長・石鼻左衛門友連、その嫡子友貞に同じ夢の告命があったという。天王堂の本尊・大悲多聞天のお告げは「我天諦の命を受け閻浮界の仏法を擁護するものです。今、仏法弘通の名僧がお出でになって我がお堂に宿するは、速やかに法雨の恩恵を受けることになります。」と夢が覚める。かくの如く同じくする夢を石鼻親子、住僧・善性は互いにこの夢を語りつつ天王堂いらした聖人を伺い夢想の次第を語るに聖人もまた、同じ夢見たと語り伝えれば石鼻親子、僧もろ共に大いに共感し、聖人を崇められた。笈佛の如来を天王堂に安置き毘沙門天は別の堂に移し聖人を尊び世尊の如く招聘されました。聖人はここに同年7月頃まで滞留し化役を施され、遠近の老若男女が当お堂に群参したと言われています。親鸞は一足先に京師(京都)へ入ろうと当堂宇を発ち出でられました。
聖人帰洛後は、性信房 、善性房が変わる変わり天王堂にきて教導をした。天神地祇も感応し暦仁元年7月6日の夜天女天下りて錦を織りなす縦五尺横三尺の極めて美しく厳かな色合いでまたとない錦糸、銀糸の地に貞永帝のご宸筆で天神護法錦織寺の額を賜り勅願寺となった。多聞天の尊像は、慈覚大師の彫刻で、慈覚大師は一宇を造立した。
私たちの中でよく知られている和讃は、七五調、四句で一章という形式で作られます。和讃というのは、平和の和「やわらげる」という意味と讃歌「ほめ讃える」という二つの意味を持っています。経典は、漢文で書かれているので難しい。そこで親鸞聖人は誰にでもわかり易くやわらげ、仏さまをほめたたえ、仏さまの徳を詠ったのです。和讃は一種の詩であり、詩は、人の心情を盛り込んだものです。次に挙げた恩徳讃は真宗門徒に最も親しまれている歌です。
如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
ほねをくだきても謝すべし 恩徳讃
このご和讃は、真宗のご門徒の中では、正信偈の中で和讃六首を一年通して繰り返し読みます。
毎朝のお勤めのつど称えます。代表的な和讃三首を皆さんと共に鑑賞したいと思います。
弥陀成仏のこのかたは
いまに十劫をへたまえり
法身の光輪きわもなく
世の盲冥をてらすなり
「世」とは、現在の私達がいる世界です。「盲冥」とは、暗闇の中にいる人でまだ精神的な眼が開かれていない、宗教的な眼の開けない人を言います。阿弥陀さまの光明は、ある人は阿弥陀さまの慈悲にふれると温かさを感じます。また、ある心の暗い人は、明るさを感じます、また、心弱い人は頼もしさを感じると思います。そのように時々により、人により、同じ慈悲に接した時に、様々な色合いを以て慈悲を感じとります。阿弥陀さまの徳を様々な方面から描き出し、徳を讃えた詩です。
解脱の光輪きわもなし
光触かふるものはみな
うむをはなるとのべたもう
平等覚に帰命せよ
「解脱の光輪」とは、とらわれから人を解放してくださる、自由にしてくださる、そう言う阿弥陀さまの光の輪です。阿弥陀さまの徳を讃えています。その阿弥陀さまの慈悲の光に触れたものは皆、「有無をはなるとのべたまう」、「ある・なし」と言う囚われのこころから自由に解放されると言っています。
敵・味方、良し・悪し、好き・嫌い、損・得などこの世の中で起こっている自己の都合、いずれにも囚われない。それを超えた立場に開放してくださる。これを「有無をはなれる」と言います。阿弥陀さまの徳は人ががんじがらめになっているこの考え方から解放してくださると言うのです。この二律背反の境から自由な世界、そこにあって私達の心の安寧があります。自他共に心の平安が生ずる世界に出ることが出来ると思います。「平等覚に帰命せよ」平等なる覚りとは、阿弥陀さまは、総ての人を救済してくれます。掬うと言うは、囚われの心を開放してくださると言うこと。そう言う徳を備えたお方が阿弥陀さまです。ですからその光に触れる者すべてに、そう言う仏の自覚を与えてくださるお方に帰依(教えを信じること)しようと言っています。お金もある、家もある。あればあったでその為に維持をしなければならない、もっと欲しい。なければ、ないで、家も金と汲々しなければならない。悩みは、何処までも続きます。悩み・苦しみの解けないのが私達です。高いところから眺めれば、「ある・ない」は一緒であると言うことです。そういうことに眼をひらく。気づかせる。これは仏さまの光に照らされてはじめて身で分かると言うのです。
清浄光明ならびなし 遇斯光のゆえなれば
一切の業繋ものぞこりぬ 畢竟依を帰命せよ
「清浄」とは、煩悩の汚れがない、我欲がない、私利私欲がない。本当に利害の囚われがない世界です。「遇斯光」こうした清浄の光に遇う。業繋とは、自らがなしてきた迷い、悪行によって、苦しみの世界につながれ、罪に縛られている現実の私のことです。私達は一見自由に振舞って人生を送っているようですが、実は自由など少しもないのが私達の人生なのです。ところが自分で迷い、悪行につながれ、縛られている迷いの因を如来のみ光に遇うことによって自由の身になると詠っています。
阿弥陀の持つ光に出会った者は、自己の業への囚われが除かれる。と言っても自己の業は阿弥陀さまでも取り除くことはできません。おのれがまいた種はおのれで刈り取らなければなりません。お釈迦様でもできないことはできないのです。仏の三不能と言う言葉があります。一つは、因果の道理を覆すことはできない、二つは、ご縁のない人を救うことはできない、三つは、総ての衆生(人々)を救い尽すことはできない。「業」を消し去る道は、業を尽くす。それを避けずに、逃げずに、それを受けていく。自分はこのように愚かなことを犯した。これは誰も救ってくれない、自分しか受けてくれる人はいない。つまり、法(み教え)を、真理を受けた人が救われると言うのです。
畢竟依とは、最終的なよりどころと言うことを意味しています。悪行・煩悩に悩まされ、濁世にまみれている私達は、健康、お金・財産、名誉、地位を、この不確定の時代を生き抜く道の拠りどころとしました。このような健康、体力等が与えられているのは本当に短い時間だけのものです。南無阿弥陀仏は、誰もが最終的に行きつくところ、阿弥陀の大慈悲そのものですが、阿弥陀に包まれてこそ変わらぬ永遠な安寧、涅槃を得ると言っています。「畢竟依を帰命せよ」とは、「南無阿弥陀仏」の道を「畢竟依」(=最終の拠りどころ)に身を置くと詠ったものです。
西暦 | 和暦 | 年齢 | 事柄 | 主な動き |
---|---|---|---|---|
1173 | 承安3 | 1 | 親鸞誕生 | |
3 8 |
1175 安元1 源空、専修念仏義を唱える。 1180 治承4 平氏、東大寺・興福寺を焼く。 |
|||
1181 | 養和1 | 9 | 慈円のもとで出家 範宴と号す | |
14 20 26 28 |
1186 文治1 大原談義 1192 建久3 源頼朝、征夷大将軍となる 1196 建久9 源空、「選択本願念仏集」撰述 1200 正治1 幕府、念仏宗を禁止 |
|||
1201 | 建仁1 | 29 32 |
これまで堂僧を勤めた延暦寺を出て、六角堂に参籠、聖徳太子の夢告により源空の門に入る。
夢告の説明:本稿「法然上人との出会い」を参照 |
1204 元久1 源空、門弟を戒め、七か条誠を表す。親鸞、それに「僧綽空」と署名する。 1205 元久2 「選択本願念仏集」を書写し、源空の真影を図画。夢告により「善信」と名を改める。 |
1207 | 承元1 | 35 | 越後の国越後居多ケ浜(新潟 上越市)へ遠流。 | 源空、四国へ遠流。 |
1211 | 建暦1 | 39 | 流罪を許される。 | 源空、流罪を許され入京、東山大谷に住す。 |
1212 | 2 | 建暦2 源空歿。(80歳) | ||
1214 | 建保2 | 42 | 常陸の国へ行く。以降約20年にわたり関東一円で門弟の育成と布教活動を行う | 承久3 承久の乱 常陸の国 笠間の稲田に住す。 |
1224 | 元仁1 | 52 | 「教行信証」草稿作成す。 | 覚信尼誕生。 |
1231 | 寛喜3 | 59 | 関東門弟に別れを告げ京へ帰路につく。 | 執筆活動に入る。 |
1235 | 嘉禎1 | 63 | 恵信尼らと別れて、覚信尼を伴って京に帰る | |
1248 | 宝治2 | 76 | 「浄土和讃」「高僧和讃」を著す | |
1256 | 康元1 | 84 | 親鸞聖人の長男・善鸞を義絶 | |
1257 | 正嘉1 | 85 | 「正像末和讃を著す」 | |
1262 | 弘長1 | 90 | 押小路南・万里小路東の住居で病死、入滅 |
夢とは、一体何であろうか。心理学では無意識に封印された意識が夢になると言われています。眠っている間に、頭に映る形・像です。これは日頃から無意識に封印されている事象(姿や言葉)が夢となって現れることです。例えば、日ごろの不満不信を心にしまい込んでいる場合や一つ事でいき詰まり暗中模索している時の気持ちを心に封印している、とその封印された気持ちが何らかの形で夢となって現れます。
多くの高僧は、修行中に多くの経典を学び、その内容理解にいき詰まったり、自分の考えが纏まらないのでいらいらしている場合や焦燥し悩み続けたりしている時、突然夢の中で理解を得ることがあったというのです。また、これを夢のお告げとして自分の学説の権威づけになされたとも言われています。
善導大師(613~681)は、阿弥陀仏の前で毎日々々「阿弥陀経」を読誦し「なむあみだぶつ」を3万遍一心に念じた。ある日、神々しい光明の中に多くの仏さまや菩薩さまが立っている夢を見た。それ以後に、夜ごとに一人の僧が出てきて経文の深い意味を教示してくださった夢を見た。夢のお告げにより、凡夫が仏になる道は、称名念仏即ち「なむあみだぶつ」を念ずることであると言い切っておられます。
我が国の高僧の方々にも宗義の夢によっていろいろない説話・逸話的な話があります。
例えば、法然上人(1133~1212)は、善導大師が観経琉(仏説観無量寿経の解説書)の中の一文にお釈迦様の教えの中から念仏の一つを選び専修念仏の教えを確立されました。南無阿弥陀仏のみ名を称えれば誰でも必ず救われると説いたのだから易しい教えが確立されたと考えます。
しかし、これは仏教史上の革命である。革命であるが故に幾日も大いに悩み何か確証が掴めないかと考え続けられました。ある日、上人は「・・・やがて、この雲の中より墨染めの衣を着た僧が現れ、法然の所に降りてきました。よく見れば上半身は墨染めの衣を、下半身は金色であった。法然は合掌して『あなたは誰ですか』と尋ねました。僧は答えました。『我は善導なり、汝、専修念仏を広むる故に、証とならんがために来れるなり』と、夢の中で、善導大師と法然上人にお話ができ念仏の教え「南無阿弥陀仏」専修念仏の確かな証を得たと言われています。
範宴19歳の時(建久二年9月12日)、比叡のお山での求道生活に行き詰まり、かねて崇敬されていた聖徳太子の御廟へ参籠されて、生死一大事の助かる道を尋ねられました。ここは、かつて、母から聞いていた「夢に如意輪観音が現れて、五葉の松を母に授けて私の出生を予告した」と言う話を思い出し太子ゆかりの磯長の御廟(大阪府石川郡東条磯長、現在の町名は太子町)へ参詣したのです。
2日目夜中2時頃、夢に幻のように石の戸を開いて聖徳太子が現れ、廟窟は赤々と光明に輝き範宴に聖徳太子は、お告げになられました。
わが三尊は塵沙の界を化す、日域は大乗相応の地なり、諦に聞け、諦にわが教令を。
汝が命根に応うに10余歳なるべし、命終わりて速やかに清浄土に入らん。よく信ぜよ、
よく信ぜよ、真の菩薩を。時に、建久二年9月15日前の夜14日の告令に終った。
(意訳) 弥陀、観音、勢至の三尊は、塵のようなこの悪世の人々を救わんと尽力されています。わが国土は真実の仏法の栄えるにふさわしいところです。よく聞けよ、よく聞けよ、耳を澄ませて私の言うことを。そなたの命は、あと10年余です。その命が終わる頃に、そなたは浄らかな世界に入るであろう。だから真の菩薩を深く信じなさい、心から信じなさい。この3日間、一心不乱に生死出離の道を祈り念じ、ついには失神に至ってしました。
28歳なった善信(範宴)は、目前に迫る後生の一大事に憁悩されながら、叡山・無動寺の中にある大乗院に籠もり日々一心に修行を続けられていました。
磯長の夢告から9年が過ぎた正治二年12月30日の午前2時ころ、夢に如意観音が再び現れ、「善いかな、善いかな。汝が願い当に満足せんとす。善いかな、善いかな我が願い満足す。」とお告げがありました。
この意味は、そなたの一大事の後生を解決するときは近い。望みをすてないで求め続けなさい。私の役目も終わりに近づいています。と聖徳太子は範宴に語りかけられたものと思われます。これ(第2の夢告)を大乗院の夢告と言っています。
第3番目の夢告は、当に弥陀の絶対の掬いが目の前に近づいていた。絶対無二の弥陀の掬いに値を果たした喜びを夢見るものと思われます。
時に、善信(親鸞)29歳、比叡の山を下り、洛中(京都の中心地)へ1201年(正治三年)正月10日から
4月14日の100日間六角堂頂法寺に籠られます。六角堂本尊の救世観音にわが身が救われる道があるかと尋ねられたのです。95日間祈り念じました。95日目の夜明けに救世観音が姿・形をえ立派な僧の姿で真っ白な袈裟をかけ大白蓮華の台に座し、善信(範宴)に向かって次のように告げられました。「行者がこれまでの因縁によって、たとい女犯があっても、私(観音)が玉女の身になって肉体の交わりをお受けいたします。一生の間、能わく荘厳してその死に際しては導いて極楽に生ぜさせよう。」救世観音は、「さらに、このことば、私の誓願です。一切の人々に聞かせなさい。」とここで夢が覚め終わったというのです。
行者とは、真実の救いを求める仏道修行者のこと、修行者(僧)は、一切女性に近づいてはならないという戒律(不邪淫戒)がありました。しかし、情と欲から生まれた人間が、情と欲を離れ切れない矛盾に突き当たったとき、悶え苦しんでいる善信(範宴)に対して「行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽」と救世観音菩薩は夢で教えられたものと思われます。
女犯の夢告の後、すぐに、1201年(建仁元年)、善信は、これまで叡山・常行堂で修行していましたが やがて常行堂での堂僧を出て、源空(法然)上人の門下に入られました。
康元二歳丁巳二月九日夜
寅時夢告云
弥陀の本願信ずべし
本願信ずる人はみな
摂取不捨の利益にて
無上覚をばさとるなり (真宗聖典 p.500)
(意訳) 今こそ阿弥陀仏の本願の教えに帰れ。本願の教えを聞く者の上(身)に開かれている生活は老少善悪くの人を選ばないという阿弥陀の願いによって、あらゆる人の上(身)に、自己に覚めるという生活が開かれるのである。
正像末和讃の巻頭が作成された時は、親鸞85歳であった。その一年前に帰洛にあたって長子善鸞を門弟のために自らに代わって関東へ派遣した。ところが善鸞は、関東における地位を確保するために、関東の門弟たちに善鸞が特別に親鸞から教わったと偽り ありもしないことを言いふらしことが知られはじめた。
善鸞は非常にまじめなお方のようであったが、阿弥陀様のお慈悲に甘えて、悪いことをしても構わないと、造悪無碍の方向に走った人々に、訓戒をする立場にあるお方(戒律を重んずる生き方をした人)が、間違ったことするのは許せないと、仏教者の一人として親鸞は、たとえ我が子の長子であってもあってはならないことをすれば義絶を決断しなければならなかったのであろう。親鸞は大いなる苦しみ悩んだのであろう。
84歳で晩年の精神的な苦痛を経験した翌年、康和二年(1257・正嘉元年)の2月9日寅の時夜(=午前4時)ころ、辛苦に感得され夢に触れ和讃を、当に釈迦の説く(注1)正像末の到来としてこの和讃の巻頭に敢えて付言として挙げられたにちがいない。
ここ巻頭の「夢」とは、一つに、信ずるに足りないもの、頼りにならないこと、夢まぼろし、幻想、もう一つには、深い心の落ち着き、安定、いわゆる「(注2)三昧の状態」を「夢のお告げ」とも言うのである。
注-1 正像末とは、お釈迦様が亡くなられてから時代が下がり、教えを理解する人々の能力がだんだんと衰えてくる。また、時代が下がり他の人々に教えが伝えられると、元は正しく理解された教えであっても、教えが分かりにくくなると言うのである。お釈迦様の純粋の教えが保たれている期間は、釈迦滅後500年から1000年位という考え。この間の教えを「正法」と言い、釈迦の正しい教えが行われていたと言われています。
「像法」とは、像は似た姿、少し変形した教えが行われている時代。「末法」とは、理解能力、人々の受容能力が一番落ちた時代と考えられた。
「正像末」と詠んだのは、阿弥陀さまの徳、「知恵、慈悲の無限の働き」は、正像末即ちお釈迦様が亡くなられて何年たとうとしても、いつの時代であったとしても変わりなく光り輝き、救済力を変わりなく発揮し続けると阿弥陀の徳を讃えた和讃であると思われるのである。従って、正像末とは、正・像・末の三世に亘ると解したのである。
親鸞が長子の善鸞を義絶した84歳は特別の年であったものと思われます。家庭を持つ者人として、子に背かれる親ほど悲惨な立場はなく、苦しみの極致を味わい京へ帰った。
注-2 三昧とは、一つのことに心を集中して、雑念に乱されない忘我の境地。
第五章
聖徳太子の尊崇
聖徳太子は、用明天皇を父に、穴穂部間人皇后を母との間に574年にお生まれになられました。幼少の頃から聡明であり、太子は一度に10人の人の言葉を聞くことができるとか、久世観音菩薩の生まれ変わりであると言い伝えられてもいます。
当時、母方の曽我氏は、物部氏を滅ぼし、崇峻天皇を亡きものにして、推古天皇を即位させました。推古天皇は、その聡明な太子を20歳の若さで推古天皇の摂政としました。推古天皇は、太子に政治のすべてを任せましたが、太子は、権力を奪おうとする豪族が多くあり日本の将来をおおいに憂いておられましたので、国の安寧を願い仏教を導入し国民の生き方あり方を模索しました。
同時に、中国の隋や朝鮮半島の国々と同等の地位を保ち国際社会の一員となり仏教を始めとし先進文化を取り入れようとしました。
摂政となった翌年の594年に「三宝興隆の宣言」を発しました。三宝とは、真理を悟られた仏、真理である法、それを求める僧の、ことです。この宣言が国の方針に認められましたので多くの国民は仏教を信じ、寺の建立が進められるようになりました。
604年聖徳太子は、朝廷の役人の心得に「十七条憲法」を制定し、仏教の和と慈悲の精神による理想的な政治を志しました。そして中国の隋朝の政治手法をもとに置き国の政を進めました。
人の生きる使命とは何か、人の生死とは何か、人々の幸福とはどういうことかを高句麗(朝鮮半島)から招いた高僧から学び善政に尽くしました。ところが次第に権力を持ち上げてきた蘇我氏との間に政治的亀裂が生じ始めるようになって来ました。
太子は、601年蘇我氏の勢力を恐れ生駒山の麓にある斑鳩の里に隠遁しそこに宮(奈良・法隆寺)を建立し、ここで三経、勝鬉経、維摩経、法華経の注釈の執筆に励みました。そして、大乗仏教の基礎を確立されました。日本に仏教が本格的に始まりました。
諸悪莫造 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教
(意訳)全ての悪はなしてはならない。全てのよき事を行いなさい。自らの心を浄めなさい。それが仏たちの教えです。
「三宝興隆を宣言」「十七条憲法」を制定して、仏法興隆に尽くしましたが、後を断たずして皇族や豪族の骨肉の政争に心を痛めておられました。叔父の崇峻天皇が暗殺されたことなどで、争いが起こらないようにするためには仏法の教えが改めて大切であることを認識し、仏法による平和を求め続けました。
「世間虚仮 唯仏是真」(この世はかりそめのもので、仏だけが真である)と太子は常日頃からよく言っておられました。
太子は622年正月頃から床に臥し2月22日にお亡くなりになられました。49歳でした。太子の死が伝えられると、天と地が真っ暗となるほどに人々は悲しんだと伝えられています。
太子の死を悼み、お妃をはじめ多くの娘たちにより、太子のおられる天寿国と言う仏の世界を刺繍であしらった2帳のとばり(たれ布)が作らました。奈良・法隆寺に「天寿国曼荼羅繍帳」として保存されています。
親鸞聖人は、このような太子を「和国の教主」として仰がれ115首の「皇太子聖徳奉讃」を作られました。親鸞聖人の85歳までの生涯は聖徳太子の強い影響を受けられたと言えます。
今も七高僧とは別に聖徳太子の教えは、真宗門徒に根強く崇められています。真宗寺院では、七高僧の絵像と太子の絵像が掲げられています。また、別に太子堂がお御堂と共に併設されているところが多くあります。
久世観音大菩薩
聖徳皇と示現して
多多のごとくすてずして
阿摩のごとくにそいたもう (真宗聖典 p507 皇太子聖徳奉賛2)
(意訳) 聖徳太子は、公の職業を離れて世俗の中でも仏さまのこころを根本とされ、自らのこころが行き詰まったり、事の成り行きに悩んだりしたときは仏さまに相談したり、指示を仰いだりしたといわれています。
親鸞聖人は、太子は久世観音こそこの世に人の心をもった本当の姿に変身したお方であると仰がれていました。親鸞は、その太子を即観音さまであると尊崇されたものと考えます。
「多多」とは父、「阿摩」とは母を意味しています。親は決して子供たちを見捨てず苦しみ悩む全ての衆生を慈悲あふれる父のように、哀れんで捨ててはおかない我が子を、母のように付き添ってお守りしてくださると詠んだものに違いありません。
暗い話題から抜け出せなく、不安な世情が続いています。国外ではアフガニスタン、インドネシヤの内戦、イラク戦争、イスラエルとパレスチナ・ビストラの戦争、そして転変地変であるスマトラの大津波、と何十万の人々の命が一瞬にして失われました。まさに地獄絵です。国内では、親が幼児へ虐待をする、児童の誘拐、殺人、追い打ちをかけるように台風、地震により多くの命や住まいを失い路 頭に迷い不安な日々を余儀なくしています。
昨今、ロシヤとウクライナとの戦争により、ウクライナの兵士を始め子女に対する虐殺行為や民間施設などへの無差別攻撃、ロシヤの無謀・残虐な行為、わが国では、コロナ禍が3年超にわたり猛威を振るい人との接触が禁じられ社会の断絶状態が続き、予想もつかない分断社会を作ってしまった。多くの労働者は、リモートワークと称してパソコンを前に外出もままならず隔絶の世となってしまった。また、海外では、ロシヤのウクライナ侵攻による戦争が突発し、世界経済を始め混乱の世となっている。世界中が混沌としています。
今からおよそ800年前の時代、1170年代(承安年間)は源平合戦の時代であり、世は末法を迎えていたと言います。戦や転変地変の続く乱世となる。その時代、京都では大火で二万余戸が焼失し、政治が不安定となり平家と源氏の争いが始まります。この末法の世を、仏の教えを行われる正法に戻す努力をするのが僧侶の役目であったが、当時の僧はいたずらに権力にこびへつらい、折りやまじないに憂き身をやつして、人々の心の救済に尽くそうとする者はまれであったと言われています。まさに、二十一世紀の今、その世の再来・再現と言ってよいと思います。私たち 学校教育に携わる者においても当に同じの感がします。
世の中の動き、時の流れをみますと、平和と幸福の道を求めながら、「人間性の時代」へと動こうとしています。この二十世紀は、ともすれば人間が獲得した知識や技術が大きく評価され、物の豊かさに価値観が置かれていました。これからは、その知識や技術を使う人間性そのものが重視され、心の豊かさに価値観が重視されるようになると思われます。「豊かな人間性回復」が強く求められる時代となってきました。私たち、学校教育に携わる者に課せられたことと思わざる得ないのです。
人間性には、一般的に言って、感謝、慈愛、奉仕、思いやり、誠実などがありますが、その根幹となるものは「仏の慈悲」であると思います。
「慈悲」には、深い浅いに別がありますが、対象が誰であろうと、何時までも平等にそそがれるものです。言い換えれば「純粋な愛」です。このようなことは人間社会にはないことだとおもいます。これを「仏さまのこころ」と理解します。智慧・慈悲が無限に働き出すお方、阿弥陀仏のこころを頂くよりほかに道はないと考えられます。仏は、全ての人へ愛をどの所でも、誰にでも、いつでも等しくこの世に実現したいと言う意思を、苦しみ悩む人々を掬いとりたいという意思を願っているのです。仏、すなわち阿弥陀さまは決して人々を選んだり、嫌ったり、捨てたりはしません。人々への平等の愛を誓われているのです。
台風や地震での大災害が起きました、それを伝え聞いて多くの人々の心に、自然発生的に「ああ、気の毒だ、何とかしてあげたい」と言う気が何処からとなく起きてきます。その気持ちは、誰が起こしたか。誰でもない不思議に起こったのです。そのこころは起こす者なくして起こる、何処からとも なく起こる。全く不思議なことです。この不思議は、人間の、人のはからいを超えており、縁が熟すればいつでも、何処でも起こります。これが仏さまの心だと思うのです。
日頃の私たちの心は、自分さえよければよいと、自己が最優先いたします。しかし、もし私たちが利己、自我を推し進めた生活をするならば、必ず自らが不幸になります。決してこころの満足は得られません。周りが幸せであると、その幸せが私たちをまた幸せにしてくれます。他を幸せにすると自己がおのずと幸せとなるのです。世の中はそういう構造になっているのです。自己の利益のみを極端に追求すると、それが自己の幸せを導くどころかますます不幸、孤立に追いやります。こころの拠りどころは、すべての人が平等に幸せであって欲しいと言う「阿弥陀の願い」と呼ばれる心持です。
自分自身にたいして、素直であり、誠実であると言うは、他人に対しても誠実であることが人間尊重の真意であろう。人対して誠実であるには、約束を守り、自分の責任を明らかにし、失敗しても言い訳をせず、そして、相手の身になって考えると言うことです。自分に対して誠実であれば、働く場や学ぶ場にあっても、私生活においても真剣になります。真剣な生活態度の中でこそ、その人の人格も知識も技術も自然に磨かれて人々の信頼を得ます。日々の生活の中で、あなたは何を願い望んでいるのかと問われますと、ただ目先のことしか答えられません。腹が減れば食べたいと思い、満腹になれば眠りたいと思い、退屈になれば外に出て遊びたいと思います。そういう目先のことで願望を満足させようとする限り、次からつぎへと心を紛らわすものが続き、本当の満足を得ることはできません。本当の満足を知り得なければ、私たちの人生は、ごまかすより他にないと思うのです。
仲間内で、最近、こころの温もりが少なくなった。自分の尺度でものを考え口先き巧みで理屈のみが先走っている。言葉に感動もなければ、親愛の感情が生まれない。そうならないように相手の立場を理解し、人の痛みの分かる暖かさをもって欲しい、と愚痴をこぼすのです。今、これから何かを学び取ろうとする皆さんへ学ぶと言うことについて、お話をします。学ぶというのは、単に物知りになる、知識を得ると言うことではありません。ひとつの事象にぶつかる度に、その原理を何故こんなことが起きるのか、自分がそのことをどう受け止めればいいか、どう処理すべきかを考えて解明し処理していくと言うことだと思います。就職する人、進学する人も、「学ぶ」と言うことの本当の意味をわきまえ、常に学び続けなければなりません。それを忘れなければ、どんな失意のどん底に落ち込んだ時でも、一瞬の後には青空を見上げることができます。
さて皆さん、「世尊、我一心に、尽十方無碍光如来に帰命して、安楽国に生まれんと願ず」(真宗聖典『願生偈』p.135)と言う言葉があります。
この意味は、悪行煩悩にさえられず、よくさわりを打ち破って照らす光の名としたもの、即ち阿弥陀の名です。照らす光とは、一切の煩悩に足場を与えている無知を破る仏の光のことです。弥陀の願い、阿弥陀佛が、自己の修めた功徳をめぐらし、人々を救い取ることへの願いに目覚めた心、真実の心、なにものに動かされない安らぎの心です。その光は十方へ広がり、いつでも、誰にでも、何処にでもたらすと言うのです。わたしたちの独りよがりの考えをさしおいて、二心なく阿弥陀の心を受け入れる、受け止める、戴くのです。
「すべての人が平等であって欲しい」と言うのが こころ の拠りどころであると言いました。このことは私
たちが自分で持つことは殆どできません。自分でもてない こころ です。これは私たち以前に、あるいは私たちの周囲に、暖かいこころを手向けてくださるお方があって初めて、私たちの眠っている こころ が目覚めさせられます。仏さまによって目覚めさせられる こころ です。私たちの こころ が仏さまを念ずるようになるのは、自分の力ではなく、いわば他から念じられて起こる こころ です。「助けてくれよ、幸せになってくれよ」と願う心が、何らかのチャンネルを通して、親なり、友達なり、あるいは先生なり、いろいろなご縁のある方々の心を通じて、私たちの心に働きかけてくる。それが私たちの心の奥底に目覚めを促し、その目覚めたこころが実は仏さまを思う心、念仏する こころ となるのだと思います。
世の中の動きの激しい今の時代、産業が日々に進歩、発展し、文明・文化も進み、私たちの暮らしにも大き
な変化を見るようになってきました。貧困から逃れるために、ものの豊かさを求めあらゆる分野で懸命な努力が続けられてきました。ものの豊かさが心の豊かさに通じるとしてきましたが、暮らしにとっての利便性を求め、欲しい物を次から次へ買いあさり、欲に溺れ、ついには世の中に人間が呑みつくされてしまいました。人間が資本の蓄積された道具になり、時間が賃金で換算される。そうした社会と対立しこころが脅かされ、踏み倒されてしまいました。私たちに、このような社会での人間の生き方、あり方をひっくり返し、真の人間の生き方、あり方の回復が待たれます。
元勤務校・名古屋大谷高等学校は、親鸞聖人のみ教えにもとづく教育を標榜しており、校訓として「人と生まれ 人になる」を掲げています。この校訓は、弥陀の智慧を拠りどころにして、人間らしい生き方、あり方一生をかけて学ぶことを願ったものです。
悩む人々に限りない慈悲の徳の働きかけ、姿や形を超えた真実が人間の聞きうる言葉としての仏さまの言葉、寿命と光明の二つの徳を表す「なむあみだぶつ」、この言葉は、私と言う人間が根底から支えられている「まこと」の法を一語で表したものです。
元勤務校では、全校集会、各種の式典などにおいて、始めと、終りに、手を合わせる、合掌する、つまり、お念仏をするのであります。お念仏をすると言うことは、私と言う人間があって、それが念仏を認めたり頂いたりするのでなく、私が念仏の主となって今まで描いていた妄想を妄念と知り、「まこと」に出会い、人となる喜びを得ると言う所作なのです。
改めてこうした仏教系の学校で、仏様の教えに出会え、学びのご縁にあずかったことを喜びたいものです。
特に、ここでは月の明るさについて語っています。真昼に輝く太陽が万物を育成する灼熱の光であるならば満月の夜にそそがれる明るき光は、威力はないが、静かに、しかも心身に徹透していくような内省の光であるとも言われております。太陽の光は、こころの闇を覆い隠す光であり、月の明かりは人間の陰影を映し出すものとも言われています。確かに太陽は生命観、躍動感に溢れ私たちに生き生きとした生活をもたらします。一方、月には寂静感、透明感を抱かせます。暗闇の中にスポットライトのごとく一人浮かび上がらせ心の中まで曝け出させます。
太陽が「智慧」の光明なら、月は「慈悲」の心であろう。法然も、親鸞も、如来の光明を「月影」に喩え大衆のこころの安寧を約束されたものであろう。私たちも大いなる力の中で生かされる身、「よく生き よく死する」ために不断の努力を惜しんではならないと思います。
私たちは、よく、父母や先生に叱られ、ムカツキ腹を立てます。そんな時、一人で心を沈めて、静かに思いふけることがあります。してはいけないことをやめたいと思っても、次から次へと反発、反抗する心が起ってきます。私の汚い心は収まらない。これは人間だから仕方がない。人間だから止む得ない。しかし「これで自分はいいのか」と、そうした雑念の中から、いま一度、心を沈めて静かに思い起し手を合わせてみませんか。「本願を信じ念仏申さば仏になる」という言葉があります。このことばを心に秘めて心を偽らず、飾らず、疑わずの気持ちを持って心を沈めて静かに思いを念じ合掌する。このように念じることを一心不乱とか、わき目も振らず、ただ一筋と言います。もう一度、何もためらわず、仏さまに向かって、偽らず、飾らず、疑わずの気持ちを持ち、心を沈め静かに思いを念じ合掌する。そんな時、重くのしかかっていたいろいろな思いや雑念がすっ飛び、楽な気持ちになることがあります。その瞬間を一心不乱とか、わき目も振らず、唯一筋というのであろう。
初春の かけた願いに 智慧を享く 虚仮のわが身か 南無阿弥陀仏 凡公
寒の入りで底冷えのするこの頃です。身体に気をつけて元気のある日暮らしをしましょう。一年の目標をつくり自分らしい生活設計を立て快い生き方をしましょう。
いつも穏やかな気持ちを以て お互いによい言葉を掛け合いましょう。人と人とが最初に交わすことと言えば、先ず挨拶です。「ちょっとすいません。これ見せて下さい」「いらっしゃいませ これでございますか どうぞ」、電車の乗り降りで、ちょっと体が触れれば、「ごめんなさい」と声をかける。人を無視しない、迷惑をかけない、という心遣いをあらわす言葉です。これが礼儀です。礼儀と言うのは難しいことではなく、その気になればすぐにでもできることです。
身だしなみを整える、挨拶をする、感謝の気持ちをもつ、決められた時刻を守る、すべて「礼儀」です。その中で、言葉を交わす、挨拶をすると言うのは最も大切です。挨拶は人と人を結びつける絆です。明るい笑顔で交わすと、自然に当人同士はもちろん、周りの人にも快いものとなります。
お正月には出会った人たちが決まって「あけましておめでとうございます」と挨拶を交わします。その瞬間、大変すがすがしい気分になります。また、黙って通り抜ける人と出会うと親近感が失せます。おめでとうくらい言ってもいいじゃないかと腹立ちさえおぼえます。
先日、通勤途上で電車を待っていますと、近所の高校生二人連れが駅のホームへやってきました。そこで私の目と目があったのですが、知らんぷりして通り過ぎていってしまいました。私は後を追っかけるようにして、「ひろし君、みどりさんおめでとう」と大きな声で挨拶をしてあげました。ひろし君とみどりさんはやや恥ずかしそうに「おめでとうございます。」と気持ちのよい声で返ってきました。ひろし君もみどりさんも、この一年きっと良い年となろうと安堵しました。
お互いによい言葉を交わそうと言ってもよい言葉なんてあまり見当たりません。つい愚痴が先に出てしまいます。あの人は、私の言ったことが少しも分らない。もう少し気を使ったらどうだろうと…愚痴を挨拶変わりにする人も多くあります。人の愚痴を聞くことは愚痴を言う人にとっては自己改造に大いに役立つことです。愚痴を言ったり聞いたりしてみるのもよい言葉の一つではないか。
本願名号正定業 本願の名号は正定の業なり
至心信楽願為因 至心信楽の願を因とす
成等覚証大涅槃 等覚を成り 大涅槃を証することは
必至滅度願成就 必至滅度の願 成就なり
(意訳) こうしてあなたは、願いの国・浄土の永遠の仏、南無阿弥陀仏となられ、その名のりは、南無阿弥陀仏という真実のことばとなりました。その言葉は、人が生きていく方向を正しく 定める働きをしています。 あなたのまごころは、いのちの根源に働きかけ私に真の心を起こさせます。私が生きることの意 味に目覚めて覚ることができましたなら、それは必ず覚りに至らせると言うあなたの願いが成就しているからなのです。
「本願に名号は正定の業なり」の本願の名号とは、「南無阿弥陀仏」と念仏を称える称名のことを言います。「至心信楽」とは心を打ち出したもので、もう一つ「欲生」を加えて三つの心を一つの心にしたものです。阿弥陀仏の真実の心を私達がそのままいただいたところを指して、私の信心と言います。如来の真実心が、私のものとして戴かれたところを指して、私の信心と言い、そういう信心こそ浄土において私が悟りを開く正しいものとなるのです。「等覚を成り、大涅槃を証することは」とありますが、「等覚」というのは仏さまの悟り一歩手前の位ですが、私たちが真実信心を得たその時にやがて浄土において仏となるのが決定した位、等覚の位につく信心を得た人は、この世において仏さまの一歩前の位につくと言うのです。
そして命終われば、大涅槃を極楽浄土において開くこととなります。大涅槃とは仏の悟りのことで。命を終わって浄土に生まれた時に、阿弥陀仏と同じ仏の悟りを開くと言うことが等覚の位につき大涅槃を証することになります。
では「三つの心を一つの心にしたもの」とは、どんな意味を持っているのでしょうか。浄土は阿弥陀如来の世界であり、清浄真実の世界です。この清浄にして真実なる浄土へ生まれていくには、どのような心を持たなければならないのだろうか。このことについて観経は、次の通り説いています。
もし衆生ありて、かの国に生まれんと願ずれば、三種の心を発してすなわ
ち往生す。何等をか三つとする。一つには至誠心、二つには深心、
三つには回向発願心なり。三心を具すれば、必ずかの国に生ず。
浄土へ生まれようと願う人は、三つの心を発してこそ往生できるのであると教えている。善導大師(613~681中国山東省生まれ・光明寺)は「観経」のこの三心、至 誠 心、深心、回向発願心の教えを最も大切に聞き取り、それを注解して、この三心に往生のあゆみがあることを明らかにしています。
「至心信楽 欲生我国」とは、このお軸は、我が家の秘宝の一つです。阿弥陀仏の四十八願、その根本の願です。第十八願について説明しておきます。
第十八願 説我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念
若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法
(意訳)わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗る者だけは除かれます。
『大無量寿経』というのは、阿弥陀仏の四十八の願をお説きになった経典です。その根本の願が第十八願であるために、それを本願と呼ばれます。その中、「設我得仏」というのは、もし私が仏になったとき、という言葉です。「十方衆生」というのは、あらゆる世界のすべての人びとということです。
「至心信楽」というのは、至心は真実という意味であり 如来の誓いが真実であることを至心といいます。煩悩にまみれた人びとは、悪に染まり誤ったものの見方しかできないために、本来真実の心や清らかな心は 一欠片もありません。
また「信楽」というのは、如来の本願の誓いが真実であられることをただ一筋に信じて疑わない心になることをいいます。したがって、この「至心信楽」は 真実のないあらゆる衆生に、如来が「私の真実の願と誓いを信じなさい」と勧められた誓いであって凡夫の私たちのおこす自力の心ではありません。
「欲生我国」というのは、如来によっておこされた至心信楽の心によって、安楽浄土に生まれることに間違いないという心がそなわることです。「乃至十念」というのは、如来の誓われた名号を称えることを勧められるのに、称える回数や称え始めてからの時間に決まりがないことを私たち衆生に知らせようと考えられて、「乃至」の言葉を「十念」のみ名に添えて誓われたものです。
如来よりお誓いを賜って信心がそなわった上は、平生のときを大事と心得て、臨終のときの称名念仏を期待してはなりません。ただ如来が誓われた「至心信楽」を深くたよりとすべきです。
この真実の信心が得られたときに、摂めとって捨てない如来の光に包まれるために浄土往生が約束された正定聚の位が定まるといえます。
「若不生者不取正覚」というのは「若不生者」は、もし生まれることができないようであれば、という仏の決意であり、「不取正覚」は決してほとけにならないと誓われた約束です。
それは他力信心を獲得した人が 浄土に往生することができなければ仏にならないと表明された、私たち衆生の往生と阿弥陀仏の成仏が一体にして誓われた確かな約束です。本願文の最後に示される「唯除五逆 誹謗正法」というのは、「唯除」とはただ除くという言葉です。五逆の罪を犯した極悪人を嫌い、仏法を謗る罪の重いことをしらせようとされることです。そして、この二つの罪の重いことを示して、十方のすべての人びとがみな洩れず往生できることを知らせようとされているのです。と、尊号真像銘文に述べられています。
欲や、怒り、妬み、恨みの煩悩(苦しみ)が、そのまま菩提(喜び)に転じ変わる世界がある、と述べられています。これを佛教では、「煩悩即菩提」と言っています。『菩提』とは喜びの心です。
「煩悩が、そのまま喜びとなる」不思議な世界を、誰もが納得されるような説明は至難の業ですが、こんな譬えでイメージしてはどうでしょう。「ぽつんと一軒家」という番組があります。田舎に生まれ育った中学生・少年は、山一つ越えた学校へ、一人で行かなければなりません。部活動で遅くなった帰り道などは、ドキッとするような寂しい山道もあります。夏はじりじり照り付ける太陽に焼かれ、冬は氷つけるほどの冷たさ 時には吹雪にしゃがみ込むこともしばしばあります。雨が降る坂道はたちまち滝のようになります。
「ああ、もっと学校が近ければ…この山さえなければ…」と、いつも山と道とを、恨めしく思うのです。不思議なことに可愛い女の子が転校してきました。なんと彼女は同じ集落ではありませんか。以来時々一緒に通学し、遠い学校のことや、寂しい山道のことなどを話しながら親しい中になっていきました。
ある日、学校の門を出てしばらくすると、にわか雨が降ってきました。なかなかやみそうにありません。傘は女の子の一っ本だけ、思いもかけずあいあい傘となりました。「雨がやまないように」「山がもっと寂しければ」「もっと遠ければよい」と心中思い続けました。
あんなに「苦しめるもの」と恨んでいた、遠い道のりも、寂しい山も、すこしも変わっていないのに、今は、まったく苦にならない。かえって苦しみが、楽しみになっているようでした。
昔から、「渋柿のシブがそのまま甘味かな」と詠まれているように、シブが強い柿ほど甘い干し柿となるのです。天日にあたって、シブがそのまま甘味に転じて変わるように、苦しみが、そのまま喜びに転じ変わることを仏教では、悪(苦しみ)が転じて善(喜び)となる、「点悪上善」と説かれています。辛い事実も、幸せの因に変わる、常識破りの幸せということです。
「私ほど不幸者はない」と思う他人を恨み、世を呪っていた涙の因、幸せの歓ぶ種となり、逆境にも微笑し、輝く世界が拝める不思議です。流れた苦しい年月も、今は過去形で語ることのできる至福となります。
親鸞聖人は、煩悩(罪=悪 ・よく、怒り、妬み)と喜びの関係を氷と水の関係に譬えられています。氷が小さければ、溶けた水も少ない。氷(煩悩)が大きければ、溶けた水(喜び)も多くなる、煩悩一杯な喜びもまた一杯となります。これを親鸞は、「さわり(煩悩)おおきに、徳(喜び)多し」と表現されています。
これは丁度、炭素がダイヤモンドになるのと同じである。真っ黒な炭と光り輝く高価なダイヤモンドは、価値には雲泥の差がありますが、どちらも炭素からできています。同じく炭素からできた黒煙に1000度以上の高温で、5万気圧以上の高圧をかけるとダイヤモンドに輝きます。
煩悩(罪やさわり)が菩提(喜び)に転じて変わる、そんな想像も及ばぬ幸せな身になれるのは「なむあみだぶつ」の特効薬の不思議な効能によるのだと親鸞聖人は感涙されています。