「1Q84」、読了しました。
んがぁー…すごいなー…。
まだ読んでいない、これから読むであろう人の可能性を考え、
読み方の方向性も、捉え方の可能性も、提示する気はありません。
ただ、ひとつだけいうと、
「結婚」ということについて、何かを抱えている人には、読んでほしいなぁ…。
既婚者であっても、未婚者であっても、それは問題じゃないし、
結婚に後ろ向きな人であっても、前向きな人であっても、同様。
とにかく、「結婚」ということについて何かを考えている人には…。
ま、これはもちろんベタなテーマ理解の一つにすぎないけれど。
さしあたり思ったのは、
これを、今まで僕が遠慮してきた「純文学」だと言っていいのなら、
「純文学」ってのは、今まで僕が見てきたものとは違うなー…っていうこと。
「伏線」とか「オチ」とかいったことの意味や役割が、決定的に違う。
まず、「オチ」がある、これは大原則。
そして、その「オチ」までに「伏線」がばらまかれていなければならず、
そのばらまかれた「伏線」は、
「オチ」までに全て読者に納得いくように「回収」されていなければならない。
そういう、物語を理性的に可視的なものにする、
しかし悪く言えば暑苦しいルールが、
「1Q84」には、なかった。
例えば、話の全体を通じて、
いろんな「人」や「集団」が入れ代わり立ち代わり出てきて、
いろんな「兆候」を示していく。
でも、その数々の兆候は、
ついぞ読者に理性的に掌握できるほどには説明されずに終わる。
ポイントなのは、
そのどれが「味方」で、どれが「邪魔」「敵方」であったか、
それさえ、分からないこと。
分からないというか、決められていないこと。
「教団」は「邪魔」、「敵方」の方なのか?
天吾の父が天吾に語ったことは、「道しるべ」…「味方」の方なのか?
分からない。
一つ確かなのは、「味方」「敵方」という属性が一切ないままに、
全ての登場者が接点を持って、絡み合って、影響しあって、
最終的に、物語の主題である課題の成就に、役割を持っている。
そういうわけで、
書かれている事柄自体で読者を納得させているのではなく、
書かれているものから滲む感覚的な雰囲気に読者を参与させている、
…という感じが、ずっとあった。
だから、こういう「味方」「敵方」の不明性をもって、
「1Q84は伏線未回収なところが欠点だ」と評するような人は、
多分いないんだろうなぁ。
難しいことを言っているなぁ…。
これで合ってるのかなぁ…。
もうひとつ感じた違いは、
「純文学」どうこうではなく、村上春樹固有のものかも。
すなわち、物語の展開にコアに絡んでくる物事を読者に提示するタイミングが、
すごく巧妙な気がした。
普通なら、
今後の展開を暗示する情報を示す場合とか、
今までになかった新情報で今までの情報に新しい「顔」を与える場合とかって、
その情報は、もっと「ドヤ顔」してるもんなんじゃない?
それこそ、章や節の変わり目とか。
でも、ふとした段落の2~3行目とか、ふとした風景描写の一部とか、
およそ「予測の地平」にないタイミングで、
コアな情報がさりげなく織り込まれている。
だから、その文言を目にして、2~3秒経ってから、
「…んが?! そっか!」(幼稚な表現だ…。)
っていうことがしばしばあった。
これは、気のせいだろうか…?
…と、気がついたら、
「文学開始宣言」をしてから読んできたもののなかで、
初めて、「感想」を書いていた。
でも、これは僕の成熟度のゆえではなく、
村上先生の創った世界のすごさの故なんだろうなー。
でも、そう言ってしまうと、
これに先立って読んだ又吉直樹や遠藤周作が、
「感想」を書かしむる力を持っていなかった…みたいになっちゃうから、
それも違うなぁ。
うーむ…。
…と、変なところで迷う。
ともあれ、読了です。
次は、平野敬一郎の『日蝕』、いきます。
僕よりちょっと年上の平野先生は、
大学在学中に、芥川賞をおとりになった方。
その芥川賞に輝いた時の作品です。
同じくらいの年齢の人なのに、片やそういう偉業を…
片や田舎のただの学生…。
そういう情けない劣等感から、当時衝動買いして、
20年ほど、本棚に放置してあった一冊です。
2017年5月3日 記