吉田 統彦(よしだ つねひこ) <プロフィール>
東海高校を経て名古屋大学医学部卒、同大学院修了。前衆議院議員。眼科医。医学博士。愛知医科大学医学部客員教授。昭和大学医学部客員教授。名古屋大学医学部非常勤講師。名古屋医療センター非常勤医師。
吉田つねひこ先生の雄姿
ローレツは後藤に最も嘱望し
「自己ノ子ヲ愛スルガ如」くにして薫陶しました。
後藤にとりローレツとの出会いはまさに僥倖ともいうべきものでした、
そして当時の日本の医学教育と医学生の質に少なからず失望を覚えていたらしいローレツにとっても、
後藤との出会いは大きな喜びであったろうと推察されます。
新ウィーン学派の特徴は
自然科学の成果とその実験的手法を医学に直結させた実証的研究と
近代の名にふさわしい科学的姿勢に象徴されますが、
後藤はそれを着実に自分のものにしていきました。
ローレツは公立医学校を実質的には教頭として主宰し、
新ウィーン学派の衛生行政思想に基づいて愛知県の衛生行政を指導し、
不健康かつ不衛生な環境を行政によって改善すべきであると説き、
後藤を衛生行政のスペシャリストにするよう育みました。
また大阪陸軍臨時病院勤務のあと名古屋鎮台病院に引き抜かれた後藤を病院長に掛け合い
「日本のために、日本の医学界のために立派な医者を養成して、
公益を将来に期すためには後藤君しかいない」と連れ戻しています。
過労で肺疾患に罹患した後藤を転地療養させ、
診療に加え洋食を食べさせる等して快癒に導き後藤を感動させました。
来日前ウィーンで精神病院医師であったローレツは愛知県に癲狂院設立を建議し、
その実践として校内に小癲狂院を建設し、
更には東京府癲狂院の建築計画をも答申しています。
「汚水排導法」そして後述の後藤による
「健康警察医官ヲ設ク可キノ建言」等衛生行政上の建議も含めて
その先駆的業績は日本近代医学史の枠組の中で今日改めて大きな評価をされています。
ローレツは石川県病院(金沢医学校)に転出する際も後藤を伴おうとし、
後藤も又随行を望みましたが、
愛知県庁が後藤の名古屋残留を切望しため断念した経緯もあります。
これらローレツから後藤への大いなる遺産の中でも最大の物は
衛生行政思想と西欧実証科学的発想法
(柔軟で意表を突いた着想の基に必要なデータを細心周到に収集し、
その上に綿密壮大な計画を構築する)の二つでした。
この延長線上に以後の後藤の人生はあると言えます。
意外にも後藤は医師として高い評価を受ける一方で、
先進的な機関で西洋医学を本格的に学べないまま医者となったことに、
強い劣等感を抱いていたとも伝わっています。
1890年(明治23年)にドイツ留学した際にその思いを強くしたとも伝わります。
後藤は既に二等診察医時代にローレツの意を体した
「健康警察(衛生行政)医官ヲ設ク可キノ建言」を県庁に提出し、
更に衛生局長長与専斎にあてて「愛知県ニ於テ衛生警察ヲ設ケントスル概略」を提出しました。
又、県下の 医師を組織して私立衛生会「愛衆社」をも組織し、
今日の名古屋大学医学部『大学一覧』に繋がる
『愛知県公立病院及医学校報告』を創刊したのも後藤でした。
1880年(明治13年)4月に満期解雇となったローレツは別離の宴で、
既に校長代理となっていた後藤による
「医事行政上の天然磁石、我生徒は鋼鉄の如し」との切々たる送別の辞に送られ愛知を去ります。
その後のローレツは1880年(明治13年)9月に
石川県病院から医学教育の充実強化に全力を傾注した山形県令三島通庸の招聘により、
山形県済生館医学寮教頭に着任し、
東北で最初に手術をする等、山形県の診療水準の向上と医師及び産婆養成等に加え、
治療器や医学書、化学機械等を充実させ、医学寮を立派にし、
更に済生館を良くするために1881年(明治14年)「済生館改新法建議」を三島通庸に提出する等多大の貢献をし、
1882年(明治15年)8月に任を終えてオーストリアに帰国し、
ウィーン郊外ヒンメルサナトリウムの病院長となり、
1884年7月20日同地にて37歳で永眠されました。
現在でも山形市立病院済生館中庭にローレツの銅像
そして旧済生館本館(山形市郷土館)前庭にはローレツのレリーフがあります。(続)
元衆議院議員 医師 吉田統彦拝