吉田 統彦(よしだ つねひこ) <プロフィール>
東海高校を経て名古屋大学医学部卒、同大学院修了。前衆議院議員。眼科医。医学博士。愛知医科大学医学部客員教授。昭和大学医学部客員教授。名古屋大学医学部非常勤講師。名古屋医療センター非常勤医師。
“個々の病人を治すより、国家の医者となりたい。”
これは後藤新平が医師から官僚、そして政治家になった理由について問われた時に言った言葉です。
また後藤は“人のお世話にならぬよう、人のお世話をするよう、そして報いを求めぬよう。”とも述べています。
後藤は前述のように、医師 官僚 政治家でありました。
医師としても極めて優秀だったらしく、
愛知県医学校(現在の名古屋大学医学部)で医者となったのち、
短期間で昇進し24歳で学校長兼病院長となり、
なおこの時“板垣死すとも自由は死せず“の名句で知られる
岐阜で遊説中に負傷した板垣退助を診察しています。
また並みの官僚そして政治家ではなく
台湾総督府民政長官、満鉄初代総裁、逓信大臣、内務大臣、外務大臣、東京市第7代市長
そして珍しいところではボーイスカウト日本連盟初代総長や
東京放送局(現在の日本放送協会)初代総裁、
拓殖大学第3代学長を歴任し、貴族院勅選議員にも任命されています。
今回は「科学的政治家」とも評された後藤の愛知医学校における足跡を追ってみたいと思います。
後藤の医師としてそして後の生涯に大きな影響を与えた人物として
アルブレヒト・フォン・ローレツ(Albrecht von Roretz)を欠かすことは出来ません。
ウィーン大学を卒え、内科、外科の両学位を持つローレツは、
明治9年(1876)5月にヨングハンスの後任のお雇い医学教師として
当時の公立病院、公立医学講習場へ着任しました。
同時にローレツの通訳兼医学教師として着任した副教師兼訳官は
幕末から明治維新にかけての時代を司馬遼太郎が医療を通じて描いた
『胡蝶の夢』の三人の主人公(松本良順、関寛斎、司馬凌海)の一人である司馬凌海でした。
司馬は奔放不羇な性格ながら語学の天才と言われ、
独・英・蘭・仏・露・中の6か国語に通じ、
明治5年に本邦初の独和辞典『和訳独逸辞典』を編集しています。
ローレツは「ウィーン医事新報」への寄稿文の中で
“私の通訳兼筆頭助手である司馬氏(中略)が薬局や手許にある薬品の点検や、
ラテン語のラベルを貼る仕事を引き受けてくれた。”と、彼の仕事ぶりに触れています。
司馬は明治10年4月まで勤務したあと名古屋で開業し、
私立の医学校と病院を設立する計画を描いていたようですが、
肺結核を患い41歳で夭折しています。
司馬はまた、在任中に設樂郡上津具村(現在の愛知県北設楽郡設楽町津具字釜石)に往診した際に、
日本人執刀の最初の病理解剖を行っています。
患者は司馬の到着前に死亡しており,
生前の症候から子宮外妊娠と診断し,
遺族の希望により剖検を行い、
卵管中の妊孕を証明したことが記録されています。
当時の愛知県知事は安場保和(1835–1899)でした。
後藤もまたローレツと司馬が公立病院、公立医学講習場へ着任した
明治9年の8月25日に月給10円の愛知県病院三等医を拝命し、
医局診察専務を仰せ付けられ勤務しはじめました。
後藤もまたローレツのもとで西洋近代医学に直に触れたと言えます。
後藤は名古屋到着後一月ほどした10月1日に司馬の塾に書生として入り、
司馬解職により阿川家に戻るまでの1年あまりの間、
司馬の塾から愛知県病院に通いました。
後藤は司馬の塾にいた間、時々司馬の翻訳の口述筆記の手伝いをして
10行20字、1枚1円50銭の原稿料から15銭ずつもらったりしたようです。
後藤は司馬の語学力と翻訳ぶりに驚嘆したそうです。
この時に衛生警察及び裁判医学の翻訳の手伝いをしたことは
後藤のこの分野への興味を引き、
恩師であるローレツに働きかけて愛知県医学校に
裁判医学の開講を見るに至る直接の要因となります。
後年、後藤が「相馬事件」に係わったのは
司馬の翻訳の手伝いとそれに伴う裁判医学・精神医学への興味と知見が
根底にあったからにほかなりません。(続)
元衆議院議員 医師 吉田統彦拝