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  • 1 はじめに

     「一仏を念ずるは諸仏を念ずるなり」という言葉があります。仏さまに一度出会った人は、それ以後いたるところでいろいろな仏さまに出会ったも同然である。つまり、一人の仏さまに出会うというのは、いつ、どこにおいてもその人が仏さまに出会うことができるようにその人自身が変わったことを意味していると言うのです。

    仏とは「はたらき」を表す動詞であって、名詞ではない。目に見えない愛の働きが具象化され、それが人格化されたものを神と呼びます。そして慈悲の働きを仏と言っています。神仏はものという存在でなく、生きて活動している心の働きのことなのです。神さまとは愛の働きであり、仏さまとは慈悲の働きであるのです。

    2 仏さまとは何者

    仏さまの働きといえば、慈悲・智慧のはたらきです。

    慈悲の「慈」は人々に安心や楽しみを与えるいつくしみの心であり、「悲」は人々の困難に共に苦しみ、それを取り除こうとつとめる思いやりの心です。重傷を負って寝たきりになり、食べ物を口に運んでもらわなければ生きていけない人にとっては、介護してくれる人が仏さまのように映ります。愛しい人と永久の別れにあった人にとっては、慰めの言葉をかけてくれる人が仏さまに見えるでしょう。このように、困っている人、苦しんでいる人の恐れや苦しみを取り除くいつくしみ、思いやりの気持ちが慈悲の心、慈悲の働きです。

    智慧は般若とも言われ、真理を見抜く強力な力のことです。つまり、迷いを迷いと気づかせる、自覚させる働きです。そしてどんな煩悩(エゴ)の障害をも打ち砕き、断ち切る力、どんなものにもうち負かされない強靭な力とも言われます。人々は、智慧のはたらきを受け、真実を見る目を覆っていた煩悩が取り除かれ、今まで見えなかった真実が見えるようになります。これが智慧の働きです。

    このように慈悲と智慧は密接に関わっているもので両者を切り離すことはできません。これら慈悲と智慧の二つの働きを持っている仏さまを阿弥陀さまと言っています。 

    3 阿弥陀さまとは

     中東や中央アジアでは血による対立が続き、そこでは毎日のように人々の生活と生命が奪われています。誠にあさましい世情と言うほかありません。しかしこの惨状を縁として、私たちの心には眠っていた慈悲の心、エゴイズムを離れた純粋な愛がおのずから目覚めてきます。慈悲とか愛には形がなく、ふだんは存在していないかのようですが、このように縁に応じて現れてくるのです。

    時間的な制限なく、どんなところにも現れるのが阿弥陀さまの働きです。縁ができれば、全く存在しないと思われていたところに、おのずと発動して人々を救い取る、これが阿弥陀さまの働きです。この働きは、エゴのない、わけへだてのない、平等な慈悲心の働きです。これは相手を選ばず、どこへでも出向き、どんなときにも働いてくれます。見捨てることは決してありません。

    4 持てる者・持たざる者の憂い

    世間の人々の心は世俗にまみれ、人情に薄く、互いにどうでもよいことを競っています。職に従事して身を養い、生活を立てていますが、年齢、性別を問わず、みな一様にお金や財産に関心を持っています。持てる者も持たざる者も同じで、思い煩うことは同じです。つまり、うろたえたり、ふさぎ込んだり、心配したり、苦にしたりして思い煩いを繰り返し、心労に振りまわされ、心の休まるときがありません。

    土地・家屋や財産に恵まれている人は、持つことが心配の種になっています。企業経営者なら、施設・設備の保全、従業員の確保、資金の調達など。着る物、宝飾品、家具、食べ物等を持っている人たちは、自分の持っているものが心配の種になるのです。

    一方で、土地や家屋、財産のない人たちはそれらを持ちたいと思うでしょう。一つを得ればさらに欲しくなります。すべてを持ちたいと願い、それに果てはありません。憂い苦み、求めてやまないのです。しかしいくら求めても得られないことがあります。どんなに思い煩おうと何の利益もないことがあります。身も心も疲労し、立ち居振る舞いも落ち着かなくなります。憂いが次から次へ起こり、苦しむだけです。

    釈尊は、この世の人々はさまざまな苦しみにさいなまされながら日々暮らしており、持てる者の煩いも持たざる者と変わらないと語っています。

    苦しみや悩みのさなかにあるとき、その人は必ずしもその苦悩の全貌を自覚しているとは言えません。悩める者が自覚に欠けているということに気づいたとき、どうなるでしょう。持てる者は持たざる者と、苦においては変わりがないことに気づき、仏さまの言葉「有無同然」に心から賛同したなら、苦の中にありながら苦のない境地に触れたことになるのです。これこそが自覚の智慧なのです。持つも持たざるもそうですが、成功と失敗、幸と不幸というものも常に私たちの人生についてまわります。それは運命です。問題はそのときにその運命をどう受け止めるかです。そのときの物の有る無し、事の善し悪しにとらわれることのない生活者となることが大切なのです。

    5 おわりに

     人間の醜さが引き起こす貪り、怒りのエゴ、さらに怒りの心によって繰り広げられる人間苦のありようは無知に起因しています。無知は貪りと怒りの根底をなすものと言われます。貪りは対象に執着し、怒りは対象を退けます。この二つは誰もが持つ自然の感情です。この二つの感情の働きが暴走したとき、心のバランスが失われ、人間関係は破壊され、社会生活も損なわれてしまうことになります。

     楽しい日々を送る極楽の生活者も、苦しみにさいなまれる地獄の生活者も、仏の法を聴聞することはできません。人間だけにその法を聞く特権が与えられているのです。おわりにその人間であるための三つの徳を示し、締めくくろうと思います。

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