子供の頃から、これからの社会は学校でしっかりと勉強した者が生き残れる条件となるとよく言われてきた。当時、大人の社会は、これからの社会が大きく変化すると読んだのであろう。
昭和20年の後半代では、高校進学者はおよそ24%で、30年後半となると45%となり、その10年後には75%、現在は97%となってきた。まさに高校全入時代となりました。一方、大学進学者は、昭和30年代で高校卒業者の30%程度であり、40年代、50年代では45%となり、それ以来20年経った現在、なんと65%に至っています。この数字からみていくと、これから10年後は、大学希望者は、誰でも大学入学できることとなります。 わが国では、成人に達するまで何らかの教育機関にとどまる者が同年齢の60%を占めるようになってきたと言えます。(子供の時代は学校で過ごすと言うパターンが、日本の若者達であると言えます。)
今日では、教育が量的に拡大し、多くの人々が長期にわたって教育を受けることを引き受け、また、そう望んでいる社会であるということである。教育が量的に拡大するとともに、教育に対する人々の意識や教育との関わり方が重要な側面となっているからである。
1 階層と学歴
なりたい職業、好きなことをしたい。小学生や中学生に将来どんな人になりたいかと尋ねると、男子ならばパイロット、電車の運転手、女子であれば看護婦、幼稚園の先生などとの応えであった。また、成人になるにつれて、男子は、博士か代議士を目指す。女子は、学校の先生や看護婦を目指すというのである。
現在の児童生徒は、サッカーや野球の選手、官吏、先生、医者、看護師や弁護士,会計士と多岐にわたる。
教育に対する人々の構えや関わり方という点で、現在の教育には、階層的、人種的な断絶、断層と言った者が目立たないと言う「質的」な特徴が備わっていると思えます。現在の教育とは、そうした断層を問題にしにくい社会であるとも言えます。特定の社会階層に属する人々だけが教育を求めるのではない。どの階層にも教育が開かれており、また、階層によらず誰もが教育に高い価値を置いていると言えます。
2 業績主義
業績主義とは、能力と努力の結果である業績を基準に、報酬の分配や社会的な地位が決まる仕組みのことを言います。人が何であるかではなく、何ができるか、何ができたかが重要な選抜の基準となる。従って、現代社会では、業績主義を社会の選抜の原理とする社会であると言うことができる。例えば、学校の中では、学業達成が最も代表的な業績であり、これを基準に将来の進路が決る場合を業績主義と言うことができる。(企業社会であれば、職業的な業績によって昇給・昇進が決る仕組みである。)業績主義の一般的状況とは、このような業績(学習の達成)による選抜が、社会の隅々にまで浸透し、しかも業績をどのように定義づけるかと言う点で、標準化と画一化が進んだ、「公平」な手続きの徹底した状態であると言われている。
確かに、上級学校への進学や就職・昇進など選抜に際し、個人の生まれや身分を重視する仕組みから業績重視に移行したことが伝統社会から現代社会への変化の重要な側面であったはずである。その意味で業績主義は先進社会に共通に見られる社会の選抜原理である。選抜の基本が業績主義な原則に基づいていると言う点では、程度の差はあれ、わが国もアメリカ、ヨーロッパもおなじである。
学校は日常的にも生徒の能力と努力の成果である業績を高く評価する場である。日本の子供達は学校で評価される業績(=学校での成績)を将来の成功を占う重要な決め手であると見なしている。例えば、試験によって大学への入学を決定する場と考えてみよう。試験の成績は業績を表わす。しかし試験問題の内容や解答の方法によっては同じく業績と言ってもエリート主義的な選抜になるか、大衆的な選抜になるかが違ってくる。支配階級の伝統的文化、いわゆる「高級文化」に親近性のある内容が試験に出される場合にはそこで測られる業績には多分にエリート文化が刻印されます。
イギリスやフランスの中等教育終了試験で専門性の高い論術式や口述式の問題が出されるような場合である。そこではミドルクラスの出身者が既に家庭で身に付けている「言い回し」や「語彙力」、ミドルクラスの文化との親近性が試験の成否の決めてとなります。それに対して、特定の階層文化から一定の距離を置いた文化的中立性の高い内容が形式的にも「客観的テスト」のような方法で試験された場合には良い成績を上げることはどの階層の出身者でも努力すれば手の届く範囲のゴールとなると言っています。
現在のわが国に於いても試験での成功や学校での成績は、どのような家庭の出身かによって大きく違っています。それでも、そのような出身階層と学校での成功との関係が特定の文化との親近性の故に有利になっているのだとは見なされていないところに大衆的なレベルにまで到達した業績主義の特質があるのではないだろうか。さらには、選抜の手続きに於いても多元的な方法を用いて多面的で複雑な選考を行う場合と、試験の合格点だけで合格が決められる場合とでは選抜の標準化や画一化の程度に差があります。正解と不正解の区別が明瞭につき試験の結果は一点刻みの点数としてはじき出されます。誰に対しても同じ基準を用いて同じ方法で選抜を行う。業績・成果の大衆化した状況のもとでは例外や特権を認めない標準化された選抜方法が選抜の「公平さ」を保証する重要な要件となります。選抜の方法自体を誰にでも等しくしようとする「平準化」の圧力が加わって選抜手続きの標準化や画一化が進むのです。
3 生まれ変わる
学校における成功が彼らのエリートとしての地位を保証する。勿論、どのような家庭に生まれたかが学校で成功できるかどうかに関係していると言われているが、特定の社会階層が占有する階層文化の有無が、「エリート」になる為の条件になるとは限らない。その意味で、今日の学歴エリートは、特定の学校文化を共有していても特定の階層文化の共有によって結ばれた支配的集団であることは難しい。
学業成績と階層について少し目を向けてお話してみたい。20年程前、1991年に第14次中央教育審議会制度小委員会の中間報告で、貧困家庭出身者の子供達の学力や学級内での人間関係に関心が寄せられ「貧困と教育」について教育改革議論があった。その報告書で、少数の私立中高一貫校が、東大など「エリート大学」の入学者の多数を占めるようになっていることを教育に於ける公平原則の危機と見なして大論争があったことを思い出します。①国立A大学、B大学の入学者の1/4~1/3が少数の高校出身者に占められている状態を放置できない。②今、6年制一貫校には、主として大都市圏に住む一定の収入を保証された家庭の子供以外は、能力があっても近づけない。教育における機会均等等の理念に反する。という理由で問題提起がなされた。しかし、この議論は、多くの人たちが教育問題に関心があるのではなく、特定の高校から特定の大学への入学者が多いので制限をしようということであった。
特定の私立6年制一貫校には、裕福な家庭の子供達が多数入学していると決め付け、そのような私立学校から有力大学への進学者も多いので、大都市圏の富裕な階層が特権的な階層として固定化されかねないと言うのである。(まさに、私学叩きであったと思います。)
東大・入学者の入学状況を、東京都の公立、私立でみていくと、1960年代~’80年間での上位入学校は公立高校が占めているが、’75年頃から私立校を中心に国立6年制校に占められていきます。’80年以降は私立中高一貫校の優位が決定的となった。この事実から、東大入学に有利な階層の子供達は、進学塾にいく為の費用や私立中高一貫校への授業料を負担できる財力によって有利な立場にあると言う。また、財力以外に、公立高出身者からの東大・入学者実態は専門・管理職の子弟が多く見られる。既に、私立高校が有力になる以前、20年、30年前から都立日比谷高校をはじめ、西、戸山、新宿高校の出身者が東大へ、そしてその子弟が同じ道を進む。東大・入学者の有利性は、「財力」によるのではなく、特定の階層出身者に与えられていたと考えられます。
ノルウェーの社会学者J・ガルッングによれば、日本では『生物学的出生の後に社会的出生が起こる』。そこでは、人々がどの社会階級に所属するかは、家柄や血統ではなく、どのような学校に入り教育を受けたかによって、つまりどのような学歴を持つかによって決る。しかも入学は、先ず間違いなく卒業(学位取得)ができるから、『どの階級に所属するかは各教育段階の入学試験の際に決る』ことになる。この『学歴主義』の支配する社会では、激しい受験競争が日常化し、入学試験による『社会的出生』の結果獲得された学歴は身分となって、社会生活の隅々にまで、支配的な力を及ぼすようになると言うのである。教育による生まれ変わり、それは、社会的には学歴によって新たな社会的地位(=身分)を獲得することであり、文化的には学校文化によって新たな「身分文化」を身につけます。
ところで、学歴社会を、受験教育は「役に立たない」、知識を「暗記」することにすぎない、と批判的である。受験で成功するには、何より努力と勤勉を重要としている。(「四当五落」=4時間の睡眠なら合格できるが5時間も寝ていたら試験の落ちてしまう。)このような受験教育の無意味さを多くの革新的な学者をはじめ高校教員は批判してきた。しかしながら視点を変えてみれば、こうした教育と社会の結びつける見方は、どのような出身階層の者にとっても努力しさえするば受験で成功し、高い学歴を得、それによって社会的に「生まれ変われる」チャンスが等しく開かれていることを意味するものではなかろうか。
脳神経細胞の本能は、たった3つだと言うのです。「生きたい」「知りたい」「仲間になりたい」この3つが脳の中で周囲の細胞同士が繋がり合いいろいろな情報を処理している。昔から、脳は人間社会の中に「生きたい」「知りたい」と言う本能から‘科学’を生み出し、「知りたい」「仲間になりたい」と言う本能から‘文化’を、「生きたい」「仲間になりたい」と言う本能から‘宗教’を創りだした。また、現代社会では、「生きたい」と言う本能から‘家庭’を、「知りたいと」言う本能から‘教育’‘学校’を、「仲間になりたい」と言う本能から‘会社’‘集団’を組織し、その集団を運営・維持していると言っています。私たちの脳が何を求めて機能しているかをよく知っておくことが大切だと言っています。
①脳には本来、「仲間になりたい」と言う本能がありますから、本質的に人は誰かが喜ぶのは嬉しいものなのです。しかし現実社会では、他人はどうでもいい、自分が成果をあげて認められればそれでいい。という風潮があります。今の社会、他人と関わらずに生きていくことはできません。「生きたい」「仲間になりたい」と言う本能を現代社会の枠組みの中に置けば、脳が求めるのは、世の中に貢献しながら、安定して生きることです。「貢献心」、これを磨き、高めることが脳の力を発揮する基本となります。「貢献心」とは、他人の役に立ちたい、社会に貢献できるのは、自分にとって素晴らしいことだと思うことが脳の志向回路を活性化することである。脳の思考や記憶に大きく関わるのが「知りたい」と言う本能です。生まれて間もない赤ちゃんが、情報の伝達路を形成するのに、きっかけなるものが、お母さんへの「興味」です。自分の最も身近にいて、自分を守り、愛情をかけてくれるお母さんを知りたいと言うことが、「興味」をもつこと、人間の脳を発達させていく、つまり、人間の脳にとっては、「興味を持つこと」こそが、総ての始まりであると言われるのです。
②おもしろくない、好きじゃない、「嫌い」というレッテルがはられると、脳は情報を積極的に受け入れなくなります。脳の理解力や思考力、記憶力を高めるには、先ず、「おもしろい、好きだ」と言うレッテルを貼らなければなりません。「好きになる力」を養うと頭が良くなるといわれます。球技が嫌い、英語が苦手、人と話すことが苦手などであれば、自然と後ろ向きとなってしまいます。気持ちを前向きにするよう努力して実際にやってみると興味が生まれ、おもしろさを発見し、ハードルを越えることで好きになる例は幾つもあります。そうなれば、脳は前向きの回路に変わり物事が好きになり、考える力も伸び興味が湧いてきます。
(余談ですが、毎朝、鏡に向かって顔を少しマッサージし、笑顔を作ってください。仕事で嫌なことがあったときなどは、なおさら無理にでも笑顔を作ると、脳の機能が回復し、興味を持ち直し、物事も前向きへとなると言います。ご自分で実験してみてください。)
③A10神経群(図解で説明する)で「好き」、「嫌い」のレッテルを貼られた情報は、前頭前野で理解・判断されます。その後、自己報酬神経を介し、海馬回・リンッピクの機能を働かせながら、「ダイナミック・センターコア」の中で情報がぐるぐる巡ることによって考えや記憶が生まれていきます。「ダイナミック・センターコア」の前に位置する前頭前野と線状体の間に介在するのが「自己報酬神経群」。自己報酬神経群は、情報が考える仕組みに向かっていくときの「通路」であり、その名前の通り、「自分自身に対する報酬=ご褒美」を与えることによって機能する神経細胞群です。人間の脳の中には、情報の流れに於いて、自分へのご褒美をモチベーションとして機能するところがあるのです。従って、自己報酬神経群が働かなければ、脳は、思考力を十分に発揮できず、考えや心、記憶も生まれにくくなります。
では、脳にとっての「ご褒美」とはどんなものでしょうか。ご褒美や報酬と言うと「自分に何かしらの利益をもたらすこと」と言うふうに捉えがちですが、脳にとってのご褒美は、利己的な損得の判断よりもっと広く、奥深いものです。簡単に言えば、「うれしいと感じること」と言うことになります。自分の役に立つことだけでなく、目的や目標を成し遂げたり、人の役に立ったりすることが脳への報酬となります。例えば、人と比較して勝ち負けばかりにこだわったり、子供の頃から何事につけ勝つことを強いられていたりすると、負けたときに罪悪感を抱き、「他人を蹴落とさなかったので自分を守れなかった」と言うエピソードが記憶として残ることになります。すると、「自己保存」の癖が働いて「人を蹴落としてでも自分を守りたい」「自分だけが得をすればよい」と言う気持ちが生まれてしまいます。いきすぎた成果主義は、本来的に脳が持っている力を削ぐことがあります。自己報酬神経群は、ご褒美への期待をモチベーションとする機能であるから、これを逆にいうと、「できた、終わった」と思った瞬間に脳がモチベ-ションを失ってしまいます。だから、まだおわっていないのに、「もうできた」と思うと、自己報酬神経群「このことはもう考えなくともよい」と判断してしまいます。例えば、試験を終えて帰ってきた子供に、「どうだった」と尋ねたとき、「だいたいできた」と応える子供は、あまり成績が伸びません。「ここがダメだった」と具体的に言え、そのできなかった部分にこだわってこそ、勉強ができるようになるのです。
④「好きだ」「おもしろい」など「感情」のレッテルを貼られた情報は、前頭前野に到達して「理解」され自己報酬神経群を介して、やがて「思考」を生む脳に集まります。そして脳の中では複合的な機能によって情報が、「考え」や「こころ」、「信念」と言った形のない(抽象的)概念をつくり出します。人間にとって「こころ」の良し悪しは非常に重要です。しかし「こころ」と何かと問われると、スッキリした答えがありません。好き・嫌いを心と捕らえる人もいます。脳の仕組みから言えば、好き・嫌いと言う感情を伴った情報が思考に達しされることによって心が始めて生まれる。つまり、人間の心とは思考することのみによって作られるのである。従って、「こころ」とは感情と思考によって生まれるもの。よい心を作るには、考えることやプラスの感情を高めることが必要です。人間の思考とは、繰り返し繰り返し考えることによって高まります。つまり、素晴らしい考え――独創的なアイデアや新たな発見は、何度も何度も思考することによって生まれるのである。「これで大体わかった」とかこれ以上考えたくないと思った途端、脳は思考を閉ざしてしまうと言われています。
そもそも、何故試験を実施するのか、子供をどう育てるのかと言うコンセプトを作成する必要があります。私たち教師や保護者は、脳の仕組みを理解し、それをふまえて指導に当たることが極めて重要なことであると思います。
⑤記憶力をよくしたい。人間の記憶には、「作業記憶」「体験記憶(エピソード記憶)」「学習記憶」「運動記憶」の4種類があるといわれています。作業記憶は気づいたもの、聞いたことなど脳が受け取った総ての情報を集めますが、自分にとって重要でないと判断した情報はすぐに消えてしまいます。
人間の記憶として長く脳に残る重要な情報とはどんなものを示すのでしょう。「体験記憶」「学習記憶」「運動記憶」は、総て脳の「考える仕組み」が働くことを必要としています。つまり、この3つが複合的に働いて思考され記憶するといいます。記憶とは、物事をそのまま記憶するのではなく一旦脳の中でイメージを作り、そのイメージを再生することだといわれています。記憶が思考によって生まれるということは、同時に、常に誤りを含む可能性を持っていることも示しています(記憶とは、そもそも、忘れることが前提となっていることを示しています)。物事をしっかり記憶するためには、プラスの感情のレッテルを貼ることが大変有効で、「これを覚えることは自分にとってうれしいことだ」「自分からやってやろう」というスタンツを持つことが、記憶力を高める条件となります。例えば、試験などの勉強をしていて「こんな知識が実際に役にたつんだろうか」「細かい知識は、試験が終わったら忘れてもいいんだ。必要なときに調べれば足りる」と思うことはありませんか。暗記しなくてはならないことが多いときほど、「試験に出るのだから仕方がない」という気持ちになりがちです。試験に出るということは、「実際に次に必要な知識を持っているかどうか」が問われている筈だし、「その知識を使って、よりよく学習効率が上がるのだ」という目的に立ち返ればおのずと「自分にとって必要であり、役に立つから覚える」というスタンツが生まれてきます。テストでよい点をとりなさい、といっても高得点を取ってやろうと思わなければ、子供たちの記憶力は発揮されません。自分から覚えてやるぞと思うことが、学習記憶を機能させることです。
記憶の仕方としてもう一つ大事なことは、興味を持っているか、人の話を感動して聞いているか(なるほど、なるほどと頷いて聞いているか、つまりどんな体験を記憶したかが記憶の強さになります。)例えば、人の名前を覚えるのであれば、名前だけ記憶しようとせず、美人だな、背が高い、顔に大きなホクロがあるなど特徴をつかむことです。更に、どんな仕事をしているのか、髪型は、服装はどうかなどさまざまな角度から情報を得て、イメージすることがポイントです。歴史上の人物の名前を覚えるときに、名前の字面だけをがんばって覚えてもすぐに忘れます。しかし、歴史のストーリーやほかの人物との関わりまで調べ、関連づけて覚えれば、いきいきとした一人の人間として捕らえればその名前はおのずと記憶に残るようになります。
お わ り に
・人間は、他人の喜ぶことがしたい。社会に貢献できることはすばらしい。その為には、何事にも興味関心もつようにする。(ドーパミンという 一種のホルモンですが分泌し『やる気が起きる』 ⇒ 中枢神経に存在する神経伝達物質のこと)
・おもしろい・好きで始める。プラス思考であることか肝心。
・「できた、もう終わった。」「このことは、これ以上考えたくない。」と思った瞬間にモティベーションは失われるので、常に「まだ終わっていない。」「ここがダメだった。」とすること。
・自分にとって必要であり、役に立つかぼえる。興味をもって聞き、その話になるほど、なるほどと頷いて聞き取ることが大切である。
大学へ進みたい塾生及び高校生の皆さんは 以上のことを自分の身になってよくよく考え、このレポートを熟読し この夏を過ごして欲しいと願っています。
受験勉強は辛いことです。学習する肥やしは、「今でしよ!」。