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  • 安達雄大の受験雑考その八
  • 「最近の若者は、本を読まないからダメだ。」
    「活字離れが若者の思考能力を低下させる。」
    「映像ばかり見ているから、想像力が低下する。」

    こんな言説を声高に叫ぶ方々に、
    偶然にも立て続けにお会いしたので、
    正直言って萎えているところ。
    さすがにもう下火になっていただろうと思っていた幻想が、
    いまだに元気で、あまつさえ若者に影響を与えているのを見て、愕然とした。

    というわけで、あちらこちらで再三言われているものに僕なりの見解も交えつつ、
    「活字信仰」がいかに「幻想」であるかを、あらためて書いておく。

    第一に、「世代の一般化」だ。
    「最近の若者は・・・」という言説には、
    「我々の世代(年配世代・・・とでも呼べるか?)は、活字を読んできた」という前提がある。
    そういう言い方をする人には、
    「活字を読む/読まない」が「個人」を単位とした話であるという発想が、欠落している。

    「あなたの世代」が活字を読んでいたのではない。
    「あなた」が活字を読んでいたのだ。
    「あなた」の同い年がみんな活字に親しんでいたというのは、幻想だ。

    また、「最近の若者」が活字を読んでいないのではない。
    あなたの前に現れた「その若者」が読んでいないだけだ。
    「その若者」と同じ年齢層の全員が活字に無関心なわけではないし、
    だいいちそんな一般化ができるわけがない。

    僕が見ている生徒さんの中には、ガツガツ活字を楽しんでいる子はたくさんいる。
    読む子は、ちゃんと読んでいる。
    僕よりも読んでいる(・・・あ、僕が読んでいないだけか・・・)。

    なお、後で述べるように、
    今言った「活字を読んでいない」という勘違いは
    「活字を読んでいない者は愚かだ」という勘違いとは切り離して考えてほしい。
    ここには二重の勘違いがある・・・そう僕は思っている。

    第二に、「メディアの多様化の無視」。
    かつては、活字しかなかった。
    だから、活字への態度は「読む」「読まない」の二択だった。

    次に、テレビが普及した。
    それからは、活字への態度は「読む」「読まない」「映像で活字の代替をする」の三択になった。
    「活字信仰」に浸っている人が攻撃の対象にするのは、「映像で活字の代替をする」人たちだ。

    ところが、時代は更に別の段階に移ってもう久しい。
    インターネットの普及により、人がものを受容する際のメディアの種類も多様化した。
    それとは別のところで、マンガが市民権を得てきた。
    映像技術の高度化によって、映画が前に出てきた。
    映画に馴染めない人たちが、
    映画とマンガの延長線上でアニメの形式を整えつつあるのが現在だ。

    こうなってくると、「活字に親しんでいる」ということの重要性も、
    その意味自体も、メディアの多様化以前と以降で大きく変わる・・・
    そう言わざるをえないはずだ。

    「活字」が「中心」、「映像」が「周縁」・・・そんな「活字中心主義」も、
    「活字・オア・テレビ」という時代には有効だったかもしれないが、
    同じ論理を現代にはあてはめることはもうできない。
    多様化以前の「活字を読む/読まない」と多様化以降の「読む/読まない」とでは、
    同じ次元で云々できる話ではない。
    だから、「最近の若者は本を読まない」と嘆く人を見ると、
    いつも心の中で、「だからなんだ?」と思ってしまう。


    だから何なんだ?

    第三に「活字絶対の発想」だ。
    「活字であること」自体が「善」として固定されているから、
    「活字でないこと」がもはやそれだけで「意味のないもの」に括られている。
    「若者が活字を読まない」と勘違いしているのに加えて、
    「活字じゃないものは次元が低い/意味がない」とも勘違いしているので、
    おのずとその人の頭の中では、「活字を読まない者は愚かだ」という言説が演繹される。
    典型的な「若者」なるものへの偏見だ。

    「マンガは活字より低次元」という発想は、
    マンガ世代に属さない人たちに特有の幻想でしかないと思う。
    『デス・ノート』よりもアッサリ読めちゃう小説はたくさんあるし、
    一色登希彦の『日本沈没』より低次元な活字なんて数え切れないほどある
    (・・・と、僕の大好きなマンガをそれとなく紹介しておく)。

    最近、奇跡的にできた仕事の隙間を利用して、
    ずっと見られないままにしてあったガンダムのOVAを見た。
    泣けて泣けて・・・もう号泣だった。
    号泣しすぎて、粘膜が傷ついて鼻血が出た。
    おそらく、漱石を読んでも鼻血は出ないと思う。
    少なくとも、漱石で鼻血が出たとしても、
    それはガンダムの時と同じ種類の鼻血ではないと思う。

    「映像が想像力を奪う」もウソ。
    映像や音声で味わったものが、
    徐々に徐々に蓄積され、ある事柄についてのイメージの母体になる。
    映像や音声は想像・イメージの「語彙」になる。
    それを一切持たない人間の想像は、
    理論上はどこまで行っても想像・イメージではなく「概念」だ。

    ついでに言うと、「若者が活字を読まないから学力が下がった」というのはもう完全なウソだ。
    「若者がオバカになった」のは、
    「活字離れ」のせいではなく「若者」が通う大学の構造がおかしくなったせいだ。

    ・・・とまぁ、「本」「活字」しか見えない人々について、
    思うこと感じることをぶつけました。
    ちなみに僕は、活字は大好きです。
    この事実は、ここに書いてきたこととは矛盾しないと思います。
    要するに、面白いものはメディアを問わず好きなので、
    活字主義者に違和感を抱いている・・・ただそれだけです。

    安達雄大  2015年04月27日 記

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