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  • 安達雄大の受験雑考その四
  • 「現代文は筆者でさえも正解できない」ということの正体について

     

    よく言われる話。
    「現代文は、筆者でさえも満点がとれない」。

     

    そう・・・確かにそう。
    文章の書き手が、その文章について問われた事柄に対して、完全な解答ができない。
    それは、十分にありうる。

     

    問題なのは、そこから先。
    「筆者でさえ完答不可能」に、いつもついて回る帰結が、
    「・・・従って、現代文とは答えが決まらない、不自然な教科なのだ」
    そこまで言わないものでも、
    「現代文で正解なるものを設定するのはおかしいんだ」
    という断罪が、大半。

     

    まぁ、ハッキリ言って、筋違いです。
    「筆者でさえ完答不可能」には、全くもって同意。そういうことは、よくある。
    ・・・で、なぜそこから一足飛びに、「悪いのは現代文だ」になるんだろう?
    「現代文」の他にもう一人、「悪いのは、お前だ!」の候補になるもの、ありませんか?
    そう・・・「筆者」ですよ。

     

    皆さん、「現代文の正解は、文章を書いた筆者にある」って、思っていませんか?
    違います。
    「現代文」の正解は、文字通り「文」にあります。
    「正解は文にある」と「正解は文を書いた筆者にある」は、同じではありません。
    筆者がどう思おうが、それは筆者の自由ですが、
    その考えを「日本語」という言語で表出した瞬間に、
    その言葉は筆者から独立します。
    その筆者から独立した日本語がどう読めるか・・・
    それはもう、筆者が本当はどう言いたかったのかとは別の事柄として捉えるべきです。

    ストレートに言ってしまえば、筆者の日本語がヘタクソならば、
    思った通りのことは書けていないわけで・・・。


    そういう場合には、出題者が本文について想定した「正解」が、
    筆者の頭の中にある事柄とズレてくるわけで。
    そのズレをもって、筆者が出題者の所にクレームを付けに行っても、
    それは「出題者、悔い改めるべし!」にはならないわけです。
    事実上は、「出題者、筆者、どっちが悪いんでしょう?」となる。
    場合によっては、「筆者、日本語改めるべし!」となるわけだ。

    筆者、出題者、解答者・・・。

     

    我々は誰もが、「日本語」という公平なレフェリーの下で、
    モノを書き、問題をだし、問題に答えているんです。
    この公平なレフェリーに背く可能性は、誰もが持っている。
    解答者が間違った答えを出した。
    ・・・解答者が悪いのではなく、出題者が「悪問」を出したのかもしれない。
    出題者が筆者に怒られた。
    ・・・出題者が悪いのではなく、筆者が「悪文」を書いたのかもしれない。
    もちろん、逆もまた然り。
    学力の低い解答者、作問能力のない出題者、
    そして、実際に自らの言わんとすることを正しく文章にできていた筆者。
    むしろ大半のケースにおいて、実態はこちらの方。

     

    ただ、そこでもやはり最終的な審判になっているのは、
    「筆者」ではなく「日本語」だ・・・。それをどうしても認めなくてはならない。
    「現代文は筆者でさえも正解できない」と息巻いている人、聞いていますか?

     

    ・・・という、国語を教える者としては、
    「両刃の剣」的な思いを、僕は持っております。
    これで、「日本語」という武器を手にして僕に喰ってかかってくる子が、増えるんだろうなぁ・・・。

     

    2014年10月15日

     


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