国語・小論文の安達雄大先生
単刀直入に、言う。
『絶歌』の出版・販売に、僕、安達雄大は徹底的に反対だ。
正確には、もう出版してしまった以上、
『絶歌』を世に出した太田出版の欺瞞と思慮のなさは、どこまでも糾弾されてしかるべきだ。
遺族への配慮を欠く・・・とか、
営利目的で「出版」という形をとったことへの説明不足とか、
もう各種コメンテーターの方々から言われていることには、全面的に同意。
それに加えて、もう二つ言わせてほしい。
一つ目。
そもそもなぜタイトルが文学志向・芸術志向なのかが、分からない。
何が「歌」だ。
「犯罪者」が、たちまち「作家」に・・・最悪の場合「芸術家」に変身してしまう。
ただの「いち犯罪者の反省文」を、『絶歌』なんていうタイトルで装飾してしまう。
そういう「色付け」に、太田出版の欺瞞が滲み出てしまっている。
本当に「純然たる社会的な価値」とか言うのなら、
『絶歌』なんていう、いかにも「売れそうな名前」ではなく、
一切の着色を取っ払い、「神戸事件の犯人の手記」にしなさいよ。
でも、以上のような事柄は、
今から申し上げる理由に比べれば、まぁ大した問題じゃない。
(以上のことだけでも十分に出版・販売停止に値すると思うには思うが・・・)
二つ目。
僕が『絶歌』の存在を否定する最大の理由は、
「どうせ大したことは書かれていないから」です。
今までになかった、括目に値するような新事実が、そこに書かれているとは思えないからです。
事件の残虐性、非人間性のあまりに、
「そこには何か特別な心理や経緯や生い立ちや世界観があるはずだ」と思い込むのは勝手だが、
罪を犯した理由なんて、そうそう簡単に説明つくのか?
例えばだけれど、
日常において、「殺意」に近い怒りや不満を覚えたことのない人間って、いるんだろうか?
突発的に相手に対して害意を抱いた・・・
日ごろから社会や家族に不満があり、ストレスを発散したかった・・・
そういう、人間だったら誰でも抱きそうな「殺意予備軍」的な感情が、
イロイロな条件をクリアしてしまい、
犯行という形で実現できてしまった。
そういう、「誰にでも起こりうること」が偶然生じただけのこと。
そんなものに、太田出版のどなたかがおっしゃるような、「社会的に特別な価値」はない。
絶対に、ない。
その程度のものを、「社会的な価値」というウソで取り繕っている、
その欺瞞が、気持ち悪い。
人は誰でも、「彼」になりうる。
「彼」のことを「自分ではない誰か」だと思い込んでいる人の方が、
「彼」よりもよっぽど怖い。
でも、今回の出版は、そういう人の存在さえ覆い隠してしまう。
『絶歌』にこびりついている「演出」のせいで、
そこに書かれているのは、「自分ではない誰か」の話になってしまうから。
自分自身には無関係な、「非日常的な絵空事」になってしまうから。
というわけで、
『絶歌』には、今までにいくらでもあったような犯罪者心理が書き連ねられているだけだから、
買っても、損ですよ?
誰でもいだきそうな感情をたまたま実現しちゃった人間の、誰でも抱きそうな感情が、
誇張され、着色され、活字として延々とダラダラ並んでいる、
そんなものが、誰かの手によって編集されて、
そして、おそらくそこでもまた「演出」されて、
皆さんのお手元に「商品」として、届くだけです。
買っても、損ですよ?
サイコパス的な心理を描写したミステリーはいくらでも出ているから、
そっちをお読みになることを、オススメします。
買われた方、読まれた方、
もし仮に、『絶歌』の中に「高邁な思想」「犯罪者心理の深淵」みたいなものが発見できたのなら、
僕の間違いです。その場合を想定して、お詫びしておきます。
でも、このお詫びは無効だろうなぁ・・・。いや、失礼。何でもないです。
2015/06/22 安達雄大 記