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教養人となろう!

これからの人生を生き抜くための教養人になろう。
教養人とは、自己の身についている固有の文化を言います。日本は仏教文化によって精神社会が生まれていると言われています。今の私たちは、伝統文化の欠如した民族となりつつありますが、皆さんの最も身近な文化が語られるようにしておくのは教養人としての第一歩ではないだろうか。
どこの家庭でも、宗教文化はあるものですが、若い私たちは、仏教と言えば、死に対しての葬送を思い出すだけです。曾祖父母から祖父母、祖父母から父母へ、そして私たちがあります。親子3代を数えれば、なんとDNAは100余年の命に繋がられて今ここに私たちが存在しています。ここにある生き方あり方を学ぶことの一つが仏教であると考えられます。
あなたも一度、仏教に触れて見ませんか。
9月、10月は仏教講話とします。

<課題> この講話をもとにして、次の要領に従って、400語から800語程度にまとめると、「戴いた命・いのち」と題して3分程度で他人へあなたの持つ文化が伝えることが出来ます。
  1. 1 はじめに(ご讃題)
    本師曇鸞和尚は/ 菩提流支のおしえ/ 仙教などやきすてて/ 壌土にふかき帰せしめき 

    (聖典 高僧和讃)

    曇鸞大師(478~542)は、中国のお方です。人生の深い悩みの中で、若くして15歳で出家しました。かれは、広く仏教を学びましたが、仏教の聖典ばかりでなく、中国の儒教や道教の教えをも広く深く学びました。 曇鸞は、三蔵法師の菩提流支に出遭われ、誇らしげに自分は長生不死の術を学んだと言った。インドにもこのような術があるのかを尋ねました。すると菩提流支三蔵は、唾を吐き捨てて「なんという愚かなことだ」とばかりに叱りつけました。曇鸞は、この教えに触れて、長寿不老などというものは、愚かな欲望に過ぎないと気づきました。そして「こんなおかしな教えがあるから、人は愚かな迷いを繰り返しているのです。」と、大切にしておられた仙経を惜しげもなく焼き捨てたのでした。
    曇鸞は、いのちを我がものと思い込んで、その安泰を願っていた愚かさに気づき長生きをしたからとしても、人はやがて死んでいく。人は不思議な縁によってこの世に生を享け、また、様々な縁に恵まれて生きていく。そして縁が尽きれば悲しいことではあるがこの世から去らなければならない。曇鸞大師は、菩提流支三蔵から授けられた無量寿ということは、量とは関係のない『いのち』の働き、そのことに気づかれました。そして無量寿仏、即ち、阿弥陀仏を念ずる念仏によって浄土に往生する信心を得られたのです。
    命題・主題の説明を述べること

  2. 2 釈迦の教えは四苦八苦である(序論)
    述べようとしている事象を論じる ー 本論を導く重要な役目を持っている。
    お釈迦様が最初に説いた教えは「中道」と「四諦八聖道」である。ここで言う「中道」とは苦楽の中道と言うことであり、心ある人にとっての苦からの解放であり、生き方の最終目標であると言える。
    人間は様々な問題を抱かえながら毎日を過ごしている。その中で最も切実なものが「苦」である。どんな境遇にある人も苦しみのない人はいないし、苦しみが何であるかを知っている人もない。本当の「苦」について考えてみると「苦」とはどこから来るのであろうか。「苦」のない世界はどんな世界か。このことを本当に知ることを「諦」と言うのである。私達は「苦」から逃れる場合に、仕方がない、と言って諦めてしもうのである。本当の意味の「苦」の解決、それは本当の「苦」を知り、知ることにより「苦」からの解放をすることである。
  3. 3 苦ということ(本論)
    事象に対する論証・結論に至るまでの手続き ー 話の中心。
    昔から苦は、生老病死と教えられている。生老病死と言うのは人間ばかりではなく、物にもある。新車(生)も、年々使っていればだんだんと古くなってくる(老)。長く使用していれば故障も起こるし、タイヤも傷む、ドアーの立て付けもガタガタになる(病)。やがてはちょっとしたことでエンジンが壊れて使用できなくなる(死)。人間は生老病死に加えて、更に①愛別離苦=都合のいいものから離れなければならない苦しみ。②怨憎会苦=都合の悪いものがこちらへやってくる苦。③求不得苦=ほしいものが向こうにあって、こちらへ来ない。向こうにあるままになっているような関係で、欲しくても得られない苦しみ。④五うん盛苦=五うん(身体、感情、表象力、意志、意識、の感覚・感性を言う)が盛んで、ここにあるという四つの状態である。
    こういう八苦の中で、私達にわかる苦、わからない苦がある。身体が丈夫で、感情豊か、感覚も極めて鋭い、俗に言う頭も良く切れる、意志強固、何事につけてもすばらしい。それが苦であるというのである。ものが完成したがこれも苦、生が苦。何故であろうか。老病死が苦であることは納得できる。都合の悪い人、嫌いな人がきた、都合の悪いことが起こった。これが苦であることも納得できる。人間の本質は苦である。私達の人生の周りには物、人様々なものが存在している。その存在には、「ある」に対していつでも「ない」という関係がある。つまり「表」と「裏」がある。 

    四月になって二週目が過ぎようとしていた。突然親友が、わが子の相談にやってきた。子供は誕生日を待ちかねて免許証を取り、バイクを買って乗りまわしていたとのことでした。学校やアルバイトに行ったり来たりするのに極めて便利な交通機関である。そのこと自体18歳を過ぎ公民権もあり一定な社会的ルールを身に付けていると信じているのであまり心配をしていなかった。ところが最近になって深夜に出かけるので私も母親も不信感を持つようになった。そうして2,3か月が過ぎ、突然、「○○警察署ですが事故で緊急搬送いたしました。追って事情は調べさせて頂きますが、すぐに!」と、あまりにも唐突であったので私どもは驚くばかりであった。
    私は、彼に丁度1年前に、もっと悲惨な出来事を思い出した。姉のバイクを借りて友達の家に遊びに行くと言って、5分もたたないうちに近くの交差点で正面衝突をし、死に至った。たまたま近所付き合いのあった高校生であったのでその様子を彼に伝えた。

    かけがえのない我が子の死、愛しい人の別れは何時ともなくやって来る。無常である。あれやこれやと思いを巡らしてもどうにもならない苦しみである。失った命は決して取り戻せない。人間に生まれたとういうことは希有なことである。人間に生まれると言う尊い因縁がなければ、人間として命を賜ることは出来ない。命は両親の願いによって支えられている。自分の命を大切にしなさい、と。
    人間は、小さな誤りを繰り返しながら大きな誤りに気づくものでもあることを認めていきたいものである。
    具体的な内容、実体験を比喩として必ず織り込むこと
  4. 4 人は誰でも、天国を求めている(結論)
    結びをきっちりと締める
    浄土の中のいのちを「国中人天」「国中菩薩」「国中声聞」といろいろな言葉で呼んでいます。人天とか菩薩とか声聞という存在は浄土にあると言う訳ではありません。この世にはいろいろいのちの相(かたち)があって、あらゆる人たちが浄土に平等に救くい取って欲しいと言う願心です。六道流転(輪廻) ー 地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上 ー の六つのあり方を、いのちはクルクルと回りながら取るのだというインドの神話的な人間理解があります。
    天上とは、天国のことです。天国は人間の想像では、すがた、形が消えてなくなって、精神的なあり方をイメージする。そこには本当のいのちはない。生物的に言えば、生きている命は必ず生きる身体があって、命があるわけです。生命のない命はありえません。生命活動のないいのちは、単に人間の理性が考えた妄念に過ぎません。でも、人間は、どのようなわけか、どの国であっても、どのような文化を持った人たちも、そういう理想のあり方を求めています。宗教のかたちが異なっていても、天国というところが、一番美しく理想的ないのちとして描かれたり、求められたりします。
    曽我量深先生は、「仏教に触れないなら人が求めるものは、どのような宗教であっても天国なのだ。」と言っておられます。つまり天人になりたい。天人にはすがた・形がないから自由自在に何処へでも好きなように羽ばたけるからです。しかし、人間は、他の人達と共に生活し、その影響を受けながら生きていかなければならいという縛りがあります。つまり不自由なのです。人間は縛りがあるから、生きている意味もあり、生きる気力も出てきます。生きる力も与えられてくるわけですが、やっぱり縛られて生きるより自由に生きたいと願っています。 

    起   承   転   結   この小論は、起承転結であるともいえます。

 


 

第 二 講

自らに帰依し奉る。まさに願わくば衆生とともに、
大道を体解して、無上意 発さん。 

自らに帰依し奉る。まさに願わくば衆生と共に、
深く経蔵に入りて、智慧海のごとくならん。

自らに帰依奉る。まさに願わくば衆生と共に、
大衆を統理して、一切無碍ならん。

 

自灯明・法灯明は何を意味するものか

仏教を学ぶと言うことは、釈尊によって悟られた法(ダルマ)を学び、その不滅の真理を学ぶことによって私達も仏となると言うことです。法(ダルマ)は釈尊によって創られたものではない。釈尊自身も「自らを灯とし、法を灯とし、他を灯とすることなれ。自らに帰依し、法に帰依し、他に帰依することなかれ。」 と教えられたようにこの不滅の真理たる法に帰依し、法を体験することによって、私達も釈尊と同様に仏となることができる。仏によって説き示された不滅の真理を私達の実生活を通して受け入れることであり、仏の教を学ぶことです。仏心とは、大慈悲であるので、仏教を学ぶことは、仏の大慈悲心を学ぶことです。「人身受け難たし、いますでに受く。仏法聞き難し、いますでに 聞く。この身今生において度せずんば、さらにいずれの生においてかこの身を度せん。」

人間に生まれたと言うのは不思議なことだ

生きる意欲
間違いなく私は人間に生まれたんだという感動、この私にして人間に生まれさせていただいたので、このまま何もしないで、唯だ生きているだけではすまされないということです。「この身今生において度せずんば、さらにいずれの生においてかこの身を度せん。」という意欲、生きる意欲という形で表現されているのです。

生涯が学び
従って、私たちは「生きる意欲」ということを見逃してはならないのです。生きる意欲という事実へのつぶやきが、同時に「生きている事は素晴らしい」と言うことです。この生きる営みが、私たちに与えられているということは,「アア、いま生きているということにとどまらず、もっともっと、どこまでも、いきいきと生きるのだ。いろいろな人たちと、つながりを感じながら生きるようになりたい。」ということです。生きる意欲につながっていくような生き方を法然上人や親鸞聖人が顕かにしてくださいました。
この真実の教えを私たちがどう頂くかの基礎・基本の一部分を、ここお念仏のご門弟や(講・同行)の集まりで学び語り合うことです。

お仏壇の中にある左右一対のお灯明は何を意味する

汝 おのれの灯となれ すみやかにいそしみて 賢きものとなるべし

これは「常に二灯を持て」ということです。「二灯」とは、法灯明・自灯明ということです。法灯明の法とは、社会全体を成立させている道理です。例えば、自然の世界では、春夏秋冬、季節ごとに自然界ではそれぞれによそおいを見させます。草木の葉は枯れ、雪化粧を装います。雪解けに誘われて地中から小さな虫が生き返ってきます。木々が目覚め芽をふき、緑を取り戻し、白、赤、青そして黄色の花をあたり一面に咲き誇ります。日射しは、日ごとに強まり、雨、風に見舞われやがて灼熱のもとに花景色も変わり、木槿の花があちこちに咲き乱れます。そして実りの秋には、栃、栗や柿の実が熟し、空風に叩かれ落ち葉と共に地に帰ります。やがて草木は眠りにつき寒さに耐え時を待ちます。これは、誰が決めたわけではなく自から決まっていることです。それと同じように私たち人間の生活も一貫した法則のもとに生かされています。私たちは、その法則に従って毎日を過ごしています。
仏教の教では、この法則を「法」と表し、この法が私たちの人生を照らし導き手となることを「灯明」という象徴で表して法灯明と言っています。法灯明は、人生を照らす灯(ともしび)という尊いことばですが、このことを言葉だけに終わってしまっては何の意味もありません。実生活の中に生かされなければなりません。どのように生きかたかは、私たちの心の中の在り方次第です。私たち自身の内面をよく観察することが大切であるとされています。そうすることで自分の主観や考えに囚われなくなり、ありのままを観ることができるようになると言われています。生活の中で、自己の暗闇を進むとき、道しるべの光となって私たちを導いてくださるのが法灯明です。それに近づこうと灯す光が 自灯明です。

ご仏壇の正面の荘厳に掲げられた左右一対のお灯明、一つは法灯明、もう一つは自灯明を象徴したものです。

法蔵菩薩の願い(本願)

正信偈や法話の中で法蔵菩薩と言う名がよく出てきます。法蔵菩薩や南無阿弥陀仏についてお話をします。

それは、お釈迦さまがラージャグリハ(王舎城)の霊鷲山(耆闍崛山)に住まわれていたときのことでした。そのときお釈迦さまは、「私がこの世に生まれてきた目的は、すべてのいのちあるものを仏にしたいという願いを起こし、その願いを成就された仏さまの存在を伝えるためです。その仏さまが法蔵という名の菩薩であられたとき・・・・・」と、私たちを助け、救うための手だてを語られはじめました。
法蔵菩薩は実在した人物ではありません。お釈迦さまが説かれ、親鸞聖人が「真実の教」だと言われた『大無量寿経(だいむりょうじゅきょう)』に、物語の形で説かれています。
あるとき、一人の国王があって、仏の説法を聞いて深く心に感ずるところがあり、求道心(ぐどうしん)を起こして、国をすて、王位をすてて、一求道者となり、世自在王仏(せじざいおうぶつ)」という名の仏をたずね、みずからの深い志を述べて、重ねて次のようなことを申されました。
「私は道を求めたいと思います。どういう世界が私のたすかる世界であり、どうすればそれを得ることができるか、願わくは、それについての教えをいただきたいと存じます」。そこで世自在王仏は、その願いに応じて、あらゆる仏の国土、あるいは人間世界の幸・不幸のさまざまな状態をまざまざと、目に見えるように説かれ、これによって法蔵菩薩は本願を発され、阿弥陀仏の浄土を建立されたと述べられています。
この物語を私たちは、ただのお話として聞き過ごしてはならないと思います。物語というものは、理論では表わせない、もっと深い意味を表す形式であって、人間にとって、ほんとうに深いもの、私たちにとって実に大切な問題が語られているものです。
さまざまな生物の中で、人間も同じ生物の一種ですが、人間はいろいろなことを問題にし、また悩みます。もうひとつ奥には、人間は自分を問題にし、自分に悩むということがあります。経済的なこと、政治的なこと、家庭内での問題、対人関係の問題など、さまざまな問題がありますが、それらのことを問題にしている自分自身が問題になったところから、ほんとうの求道が始まるのでしょう。
だから道を求めないのは、いちばん身近な、いちばん大切なものを見失って生きているということになろうかと思います。いうならば、人間の歴史の底を流れてきた、真に人類の魂(たましい)である生命のさけびが、法蔵菩薩の名のもとに説かれているかと思われます
法蔵菩薩(法蔵さま)は、煩悩のために苦しむ衆生を救い取って仏にする願い(本願)を起こされました。どうすれば力のないものを救い幸せにできるだろうか、どうすれば仏にすることができるだろうかと考え続けられました。そして、私たちのすべてを知り尽くされたうえで、「今の、そのままのあなたをどうしても助けたい」と一切の条件をつけないで救い取ることを誓われ(誓願)、言葉では言い表せない、それはたいへんなご苦労を重ねられました。
法蔵さまは、ついにその誓いを成就されて阿弥陀如来(阿弥陀さま)となられ、安らかで浄らかなお浄土(極楽浄土)を設けるにいたられました。
仏さまとなられた阿弥陀さまは、「私の声が聞こえますか。私があなたを助けます」と呼びかけられました。「あなたを必ず仏にします」と約束してくださいました。大きな言葉です。自分の存在を知らせるために、阿弥陀さまは自らの名をもって呼びかけられました。「南無阿弥陀仏」と。

 


 

第 三 講

 

  1. 1 南無阿弥陀仏とは
    私たちは、「私の名(南無阿弥陀仏)を一度でも(十度でも、何度でも・・・・・)称えた(聞いた)あなたが、もし安らかで浄らかなお浄土に往生しなければ、私も仏にはなりません」との誓いを守られて、仏(阿弥陀如来)となられた法蔵さまのお心を知らされました。そのときから、「私はいつもあなたのそばにいますよ。そのままのあなたを必ず救けます。だから、あなたもあなたの人生を慈しんで生き抜きなさい」と呼びかけられます。「阿弥陀さまのいのちと、罪も障りも悩みももったまままの、ありのままの私でよいのですね。ああよかった。ありがとうございます」と阿弥陀さまの真実心に感謝し、安心して(信心)返事をする私のいのちが、「南無阿弥陀仏(名号)」の「私に帰しなさい」というお呼び声(念仏)によって固い絆で結ばれたのです(帰命無量寿如来)。呼応する親子関係にある阿弥陀さまと私の「南無阿弥陀仏(名号)」は、私に帰しなさい」という阿弥陀さまのお呼び声(念仏)であると共に、阿弥陀さまに語りかける私の返事(ご恩報謝の念仏)であります。「南無阿弥陀仏」の真実に触れた私たちは、阿弥陀さまに見守られながらこの人生を生きて生ききったときに、安らかで浄らかなお浄土で、真実そのものの仏にしていただく身となりました。この世の生活は変わらないけれども、煩悩をもったままの私が、「そのままのあなたでよい」と仰せられる阿弥陀さまのお力によって、仏になることが約束されたのです。要するに、まちがいなく真実の報土(浄土)に至ったとき、阿弥陀さまと同じ悟りをいただいて仏になる(成仏)身の人生が始まったのです(正定聚)。
    私たちの称える「南無阿弥陀仏」のお念仏は私自身の声のように思われますが、実は、心身を惑わし悩ます煩悩を捨てることができない私ゆえに、苦しみ悩みの絶えない人生ゆえに、無常の世に生きる私ゆえに、「私の声が聞こえますか。私が付き添っていますよ」と呼びかけずにはおられない阿弥陀さまの声、お心そのものなのです。
    「真実」と簡単に申しましても、真実そのものには具体的な色も形もありませんから、私たちには理解しがたいのです。そこで、私にも感じ取ることができるお釈迦さまのお言葉を、私を助けてくださるための手だてを聞くのです。「煩悩のために苦しむ衆生を救い取って仏にする願いを起こされた阿弥陀さま」のお心のいわれを、真実の表現である「南無阿弥陀仏」という救いの力となって私に呼びかけられる名号を、形を超えて私に響いてくる真心を聞くのです。知性や論理ではとらえきれない、自然のまさにそうあるべき真実と私の間の、情感の世界で触れ合う声です。阿弥陀さまは、「南無阿弥陀仏(ナマンダブ、ナンマンダブ)」と私に称えられる名となり声となって(名声)、呼びかけていてくださるのです。つまり、私が意識して称えようと、無意識につぶやこうと、どちらも「阿弥陀さまのお呼び声」です。私にお念仏を称えさせて(聞かせて)くださるのは、阿弥陀さまだからです(本願力回向)。
    私たちは、私の口で称える「南無阿弥陀仏」を私の耳で「南無阿弥陀仏(阿弥陀如来)ですよ」と聞くのです。心に響いてくる、真実の声です。私の呼吸と阿弥陀さまの呼吸が一つとなったお念仏です。つまり、「私はあなたと共にいます。安心して生きなさい」とのお呼び声を阿弥陀さまより直接受け取っているのです。「私(阿弥陀如来)ですよ」「はい、阿弥陀さま・・・・・」と、息のかよったそのお呼び声「南無阿弥陀仏」を聞く私(称名、聞名)は、喜びも苦しみも悲しみも阿弥陀さまと一緒です(機法一体)。もはや、どちらか一方が幸せならよいという関係ではないのです。阿弥陀さまの幸せと私の幸せは一つです。
    自分で悟ろう、救われよう、お念仏を称えようと力まなくてもよいのです。なぜかといいますと、信心は私が阿弥陀さまを信じる努力によって生まれるものではないからです。無理に信じようとする信心は、いつか疲れます。私が救われるのは、「あなたを必ず助けます」という阿弥陀さまのお心、全努力、一人働き(他力、智慧と慈悲)によるからです。阿弥陀さまのお心を聞いて・・・・・、聞いているうちに「ああそうだったのか」と納得させられるだけです。聞くことを通して阿弥陀さまのお心をいただき、この身を知らされてうなずくだけです。「わたし」の性根が見えて、頭が下がって、思いあがっていたわが身の愚かさに驚くだけです。「このいのち、このまますべて阿弥陀さまにおまかせいたします」というところに落ちつくだけです。生きようと死を迎えようと、若かろうと老いようと、健康だろうと病弱だろうと、親しい人がいようと孤独だろうと、裕福だろうと貧乏だろうと、好かれようと嫌われようと・・・・・、思い通りにいかない人生ですが、ただ一つ、このいのちを委ねきれる世界に生きれることほど力強いものはありません。もっとも弱いようで、もっとも強いのです。阿弥陀さまのことを思うときも、忘れているときも、阿弥陀さまの懐に抱かれている私です。私の何もかもをわかっておられる阿弥陀さま(親)と、阿弥陀さまにすべてをおまかせした私(子)との絆ほど、安らかなものはありまん。
  2. 2 阿弥陀さま(阿弥陀如来)とは
    阿弥陀さまは無量の仏さまですから、いかなるものも、量り知れなく限りない阿弥陀さまの光といのちをさまたげることはできません。ですから、すべてのいのちが、照らされて輝くのです。そして、みんな救われて安らかで浄らかな人となってお浄土に生まれるのですから、みんな再び出会えるのです(倶会一処)。死別した人、愛する人、つらい別れをした人、会いたくてももう二度と会えない大切な人・・・・・、みんな再び出会えるのです。この世では色々あったけれども、一切の執着を離れ、慈悲ばかりの心をいただいた、いのちといのちの出会い(出遇い)です。それはまさに、「すべてのいのちあるものを仏にしたい」という願いを起こし、その願いを成就された阿弥陀さまの世界です。
    私たちの苦しみや悲しみを自分の痛みとされ、どうしても「あなたを助けます」と行動を起こされた阿弥陀さまのことを、「不可思議光如来」とも「無量寿如来」とも申しあげます。広々と量り知れない、限りない光(智慧)といのち(慈悲)の如来さまです。「如来」さまとは、梵語で「タターガタ、Tathagata」と申し、「真如(あるがままの真実・真理そのもの)から、このようにやって来た」という意味で「はたらき」をあらわす言葉です。要するに「永久不変の真理、法性、真〈如〉」の世界から、形のないものを受け入れることができない私たちのところへ、真実を知らせるために「現れ〈来〉られた」仏さまのことです。
    私たちのところへ「南無阿弥陀仏」の名号となって来られた阿弥陀さまは、ありとあらゆることに尽くされて(尽十方)、どんな悪業にも煩悩にも何ものにも遮られることのない智慧と慈悲の光明をもって(無碍光)、すべてのいのちを救い取られる仏さま(如来)です。それゆえ、「南無阿弥陀仏」の名号を「帰命尽十方無碍光如来」とも申しあげるのです。私たちは、無碍光如来(阿弥陀さま)の光に照らされて、苦しみの根源である自己中心・我本位の愚かさに気づいたとき、その愚かさに対して罰を与えられるのではなく、逆に「どんなあなたでも決して見捨てません」と大慈悲をもって真実の世界に救い取ってくださる阿弥陀さまのお心(真実信心)の中に、すでにこの私が包み込まれていることを心得るのです。阿弥陀さまが、私たちの心の暗闇を照らして、罪悪深重・煩悩熾盛の身であることを知らされるということは、すでに私のこの身を引き受けて立ち上がられておられるということです。
    その慈しみ、思いやりのお心(本願)こそが私たちを生かす力であり、真実の心なのです。名号を拠り所に生きる私たちは、「南無阿弥陀仏」と阿弥陀さまの「お働き」である無碍光如来の名(みな)を聞き称えつつ(大行)、阿弥陀さまの本願に救われた日々を過ごします。阿弥陀さまに私のいのちのすべてをおまかせして、この人生を「おかげさま」「ありがとう」と安心して生き抜きます(南無、帰命)。

 


 

第 四 講

  1. 3 真実に触れる
    さて、私たちには認識することが難しい「空」「無我」「縁起」「自然(じねん)」という一切の執着を離れた真実(宇宙の真理、実相、自然の道理)と、虚仮不実の身の私を救い取られる「阿弥陀さま」は、違う事象のように見えますが同じ真実です。このことは、きわめて大切なことです。
    真実に目覚め、その悟りの内容を伝えてくださった「お釈迦さま」のみ教えによって、私たちは真実に触れることができました。私の知識では心も言葉もおよばない「真実そのものの仏さま(法性法身)」が、色や形をたよりに生きている私たちのために、「阿弥陀さま(方便法身)」という光の姿、形をもって表れられ、情感の世界で触れ合い、すべてのいのちをお救いくださるのです。私たちは、「南無阿弥陀仏(阿弥陀如来)」というお姿(一切の衆生を救いたいと願う存在)に触れる縁を通して、真実に触れたのです。私たちは、いのちの拠り所を、人生を歩むうえでの支えを得たのです。
  2. 4 私達の人生
    私たちはこの世に生まれました。人生という旅がはじまりました。人生という旅は豊かで楽しいこともありますが、その一方、無常の旅でもあります。この世に生まれた私たちには、避けて通れない苦しみが伴います(生苦)。誰でも歳を重ねていくと、否応なしに老いる・老化という現実に苦しみます(老苦)。健康なはずの私がまさかの病気になり(病苦)、そして必ず死がやってきます。死の要因は無数にありますから、どのような形でそのときがくるのか誰にもわかりません(死苦)。更に、大切な愛する人との悲しくつらい別れもきますし(愛別離苦)、逆に怨みや憎しみを抱く人に会わなければならないこともあります(怨憎会苦)。求めるものがたくさんあっても思い通りに得られるわけではなく、手に入れても限りない欲心のために満足を知らず(求不得苦)、心身の欲望にいたってはいつまでもどこまでも盛んです(五蘊盛苦)。あたたかい涙もあれば冷たい涙もあるし、あたたかい笑いもあれば冷たい笑いもあるし、あたたかい出来事もあればつらい出来事もあるし・・・・・、本当に色々なことがあるわけで、どこへいっても苦しみ(四苦八苦)というものがついてくるのが人生です。
    その人生の途中、お釈迦さまの説かれた教え(仏教)を聞く縁に触れたことにより、闇を闇とも知らない私の行く手を照らしてくださる阿弥陀さまに出遇いました。阿弥陀さまの思い(光)に照らされて、心の中の闇に気づきました。例えば、善い行いを求め、悪い行いは避けようとしていたのに、自分の都合によっては人としてのあり方や生き方に外れた行為をしたことに気づきました。一人よがりの自分が見えました。心のすみのすみまで照らしだされて、愚かな私がいるから阿弥陀さまがいてくださることを知りました。
    お釈迦さまのおかげで阿弥陀さまの救いに出遇い、色々な問題をかかえたまま生きていける道を知りました。その日から、それまでのむなしく時を過ごすこと(空過)が多かった私の長い迷いの人生も無駄ごとではなくなりました。むなしい迷いの時間があったからこそ、ありのままの私を受け入れてくださる阿弥陀さまに出遇えたのです。そのときから、私にとって阿弥陀さまは、真実を知らせてくださる手だてだとか方便だとかという言葉も思想も越えた、まさに私のいのちそのものの存在となられました。
    縁によって生かされている私です。私たちの認識ではとても確かめられないたくさんの因縁によって、今のこの私があります。今の私は、呼吸するごとに未来を吸い過去を吐き出して存在しています。この私が存在するこの今は二度とありません。今が二度とない(無常)ということは、やはりたいへんなことです。無常をしっかり見つめるとき、生きていることの事実の重みがわかります。今、最初で最後の一日一分一秒、今日が過ぎていこうとしています。風のようにやって来て、風のように去っていく、一日一日を積み重ねていく、このかけがえのない人生の旅は、迷いの境涯からお浄土といういのちのふる里へ帰る旅です。人生がむなしく終わることのない旅です。
    この世に生まれる前も、今も、人生の旅が終わった後も、このいのちは縁によって量ることも限りもないいのちとして生かされていきます。私をこの世に誕生させて、阿弥陀さま(真実)の呼びかけに出遇わせてくださった広くて深い無量の世界へ、光といのちの世界へ帰らせていただく旅です。いつ、安らかで浄らかないのちのふる里へ帰りつくかは、大いなるいのちの流れにまかせて、阿弥陀さまに見守られながら、今日という日を尊ぶ旅です。
  3. 5 おわりに
    ところで、人生を振り返って後悔することはありませんか。罪の意識に苦しむことはありませんか。たまらなくつらくさみしいことはありませんか。取り返しのつかないことほど、忘れてしまいたいことほど、いつまでも心の中で生き続けます。反省は懺悔の心です。罪の重さに心が痛むことは、「申しわけありません」という気づきが芽生えている証拠です。「申しわけありません」と思う気づきは、私がこの世で行なった良いこと悪いこと(業)のすべてを知り尽くされたうえで、「どんなあなたであろうと、決して見捨てはしません(摂取不捨)」という、今まさに目の前にある阿弥陀さまのお心に気づく縁となることでもあります。
    阿弥陀さまは、私と一緒に苦しんでくださり、悲しんでくださっています。私たちは、そんな阿弥陀さまのやるせない思いを胸に抱いて歩むのです。阿弥陀さまは、いつも私たちの心の底を静かに照らされています。その思いに照らされて、「わたし」の愚かさを知らされるとき、泥の中に根を張りながら、泥に染まらないで美しい花を咲かせる蓮のような輝きを放ち始めるのが、心の底から湧き起こる懺悔の気持ちです。何度も何度も自己嫌悪に陥ったり、心がくじけたり、悲しいほどの後悔を繰り返しながらも、、「申しわけありません」という気持ちが少しでもあれば、「元気をだそう。何か今からでも私にできることはないだろうか」「今日一日だけでも、背筋を伸ばして前を向いて素直に生きてみよう」と、毎日新たな一日を、新たないのちを歩むことができるようになるのです。ありのままの私をまるごと受け入れてくださる阿弥陀さまのお心が、私を生かし、今日を新たに歩ませてくださる力になるのです。 私たちは、過ぎ去った過去の私の業を変えることも、まだ存在しない明日の私に触れることもできません。しかし、今日の私の生き方は自分で見つめることができます。私たちは、生きていることをあたりまえのように思っていますが、一切のものは常に変化し生滅していますから、縁によっては今日が人生最後の日でも不思議ではありません。だからこそ、今日一日の私のいのちにとって何が大事で何が不必要なのか、しっかり見つめなければいけません。不要なものを捨てる勇気も必要です。気づかないうちに通り過ぎていく時間の中で、二度とない今日一日の尊いいのちを大切にできない人は、未来の時間も大切にはできないでしょう。今日一日のいのちの尊さに気づくとき、「あなたをどうしても救いたい。」と誓われた阿弥陀さまの願いに包まれて生きる、生死を乗り越えて生きる、永遠の今を生きる、悠久の世界に生きるいのちが見えてくると思います。 また、人生にはつらく苦しいことも多々あります。暮らすことにつまずき、生きることに戸惑うこともあるでしょう。理不尽な仕打ちに傷つけられることも、何を信じてよいのかわからなくなることもあるでしょう。誰もがみな心に何らかの傷をかかえて生きています。お釈迦さまは、「人生は苦しみです」と仰せられました。この世は思い通りにならない、苦しみの尽きない、耐え忍ばなくてはならない世界(娑婆、忍土)です。しかし、苦しみや悲しみという縁を通して、本当の幸せとは何かということを問う心が起ったら、真実に耳を傾けることができたら、誰にも言えなかった私の心の中を阿弥陀さまにさらけ出せたら、阿弥陀さまのお心を知り「ああそうだったのか」と合掌している私がいたら・・・・・(転迷開悟)、それは尊いことです。
    阿弥陀さまのご本願の起こり(生起)は、どうしても救わなければいけない私がここにいるからです。お釈迦さまのお心も、阿弥陀さまのお心も、すべてのいのちを救い、幸せにするという大慈大悲のお心です。すべてのいのちを救うとは、この私も絶対に救われるということです。阿弥陀さまは、さみしくて悲しくて怖くてうつむく私をそっと抱き温め、淡々と凛々と悠々と生きられるように安らぎを、喜びを与えてくださる(抜苦与楽)のです。何が起っても、どんなことがあっても、阿弥陀さまがご一緒です。これだけは忘れてはいけません。私たちは、私を決して見捨てられない、その阿弥陀さまの大慈悲のお心の中に、すでにいるのです。
    私の目に見えない真実、この「幸せになってほしい」と願い続けてくださっている阿弥陀さまのお心に気がつくかつかないか、この違いは大きいのです。

 

これで終わります。最後に「お十念」を唱和して終わりましょう

十念
南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏

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