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  • 中野俊一氏を自信をもって推薦致します。

    山本兼一

    作家。『火天の城』で第11回松本清張賞受賞、『利休にたずねよ』で第140回直木三十五賞受賞。同志社大学文学部美学芸術学専攻卒。2014年2月13日没。

    中野俊一氏は、わたしの同志社大学時代の先輩である。

    わたしと中野氏は大学の文学研究会に所属していた。

    わたしが二年になったとき中野氏は、その会の会長になった。

    文学研究会は、学術団体でありながら、無頼を気取る輩が多かった。

    そんななかにあって、中野氏はめずらしく情熱と責任感にあふれた人材であった。

    だからこそ、自尊心の高い会員たちから請われて会長に就任したのである。

    そんな中野氏がこのたび新しく塾を開くという。

    その名はセント・メプレス。

    中野氏が開く塾ならば、

    さぞや熱気にあふれ、塾生は激しく切磋琢磨されることであろう。

    そう信じてやまない。

    山本君、こんなに早く逝ってしまうとは何事だ。何のことわりもなく、突然地上から永遠に旅立つとは実にけしからん話だ。「小説を読むのは楽しい。しかし、小説を書くのはもっと楽しい」最後の日々、酸素マスクをつけながらパソコンに向かって原稿を書き続けた君。君の頭脳と魂はまだどれほど多くの名作を秘めていたことか・・・そう思うと君の無念のほどが偲ばれる。いずれあの世で会ったら、今度こそ学生時代のように健康のことなど一切気にせず、とことん呑もう! 中野俊一拝 2014年2月13日記 同2月16日加筆

     

    山本兼一とは同志社大学の文学研究会で知り合った。

    もう38年も前のことだ。

    彼は1年後輩で、垂れ目で丸顔で笑うととっても愛嬌があった。

    そしてよく笑った。

    同志社EVE(学園祭)に文学研究会主催で作家を招いて

    講演会を開こうということになり、

    会長だった僕は埴谷雄高、吉本隆明、大江健三郎、小野十三郎、

    開高健、五木寛之、野坂昭如、遠藤周作、筒井康隆・・・

    に片っ端からコンタクトをとったが

    交通費込の予算5万では誰も来てくれない。

    そりゃそうだ。

    そこで交通費がかからない地元京都在住の作家をということになり、

    瀬戸内晴美あらため瀬戸内寂聴に照準を合わせたのだった。

    ところが困ったことに彼女の作品を僕は読んだことがなかった。

    文学研究会の誰一人読んだことがなかった。

    ならば読めばよいではないかと今の僕なら思うわけだが、

    当時の僕はそんな風には考えないほど浮世離れしていた。

    山本も同じだった。

    寂聴さんの作品の新聞広告のフレーズだけ見て、

    嵯峨野は化野念仏寺のすぐそばにある彼女の家~寂庵を

    二人でアポなし訪問したのだった。

    寂聴さんはブルガリアに旅行中だった。

    お手伝いさんに用件だけ伝えて1週間後に山本と二人で電話した。

    あれはどこの電話ボックスだったろう。

    百万遍の交差点脇だったか。

    元田中の僕の下宿の共用電話だったか。

    さすがに寂聴さんの肉声を受話器の向こうに聴いたとき、

    山本も僕もそうとう緊張したのだった。

    ところでどんな話が聞きたいのと問われた時、

    緊張はマックスに達した。

    作品を読んだことがないわけだからまともに答えられるわけがない。

    しどろもどろになった時にひらめいたのが、

    新聞広告で見た「女の性(さが)」だった。

    「えー、その、なんというか女の性についてうかがいたいのですが・・・」

    「・・・」

    「女の業でもいいのですが…」

    「あんた、わたしの本読んでないでしょ!」

    不思議なことにこの場面、

    僕と山本の記憶はほぼ一致しているのだが、

    肝心なところで食い違っていた。

    女の性云々を言ったのは、

    二人とも自分自身だと記憶しているのである。

    僕らは段落ごとにかわりばんこで受話器を握っていたのだった。

    いずれにしても

    「ま、いいわ。同志社は庭みたいなもんだから行ってあげるわ」

    とため息交じりにつぶやいた時の寂聴さんは

    きっと呆れた顔をしていたに違いない。

    かくして1976年の同志社EVEで

    瀬戸内寂聴さんの講演会が文学研究会主催で開かれたのだった。

    タイトルは『嵯峨野雑感』だったが話の中身は、

    嵯峨野とは縁もゆかりもない岡本かの子の半生記だった。

    今にして思えばあれは寂聴さん一流の洒落だったのだ。

    僕だか山本だかよくわからなくなってしまったが、

    まぎれもなくどちらかが言って寂聴さんを閉口させたあの一言

    「女の性(さが)」からの連想だったに違いない。

    つまり『嵯峨野雑感』は『性(さが)の雑感』。

    さすが寂聴先生である。

    こんな思い出話を肴に山本と杯を重ねたかったのだ。

    あの一言、「女の性」を発語したのはどっちだったのか、

    記憶の迷路を二人でまた歩いてみたかった。

    いや、いずれ、歩いてみよう。

    学生時代に戻って

    健康のことなど微塵も気にせず

    浴びるように呑みながら。

    そんなことを思いながら出棺を見送った。

    少なくとも400人以上はいた弔問客が

    喪主のごあいさつに感動したその余韻にひたってか

    なかなか帰路につこうとしなかった時

    僕のガラパゴス携帯が振動した。

    出てみると塾生のTT君。

    「先生!」

    声が上ずっている。

    「岩手、繰上合格来ました!」

    出棺の直後。

    今年に入ってから

    僕の意識が受験から一番遠ざかった瞬間を

    まるで狙いすましたかのように

    待ちに待った吉報が届くなんて

    まさか山本、

    これって君の演出なのか?

    2014年2月16日記

    プリティ中野の書評

    山本兼一著

    『信長死すべし』

    歴史上の事実を透視して、
    隠れているその真実を虚構の中に抉り出すという歴史文学の生命線が骨太に貫かれている力作である。

    本能寺の変の要因には諸説あるが、光秀が信長を討ったという事実は動かない。

    ならば光秀の心の天秤を主君弑逆に傾けさせたベクトルが単一であれ、複数ベクトルの合力であれ、普遍の人間性をキャンバスにしつつ山本の雄渾の筆致で本能寺が描かれれば、読者は自ずと、光秀は言うに及ばず、信長や帝、さらには近衛前久を始めとする公卿と交感するのである。

    時間と空間を超越する地下茎で繋がれた端末が個々の人間とするなら、マザーコンピュータが奈辺にあるのか。その所在を垣間見せる力量こそが作家の力量であり、その意味で山本兼一は最もマザーコンピュータに肉薄した端末なのであろう。

    ― 光秀の魂は、そのまま深い闇の奈落に落ちていった。

    最終章『無明』のエンディングである。

    無明のカオスの中で人間は蠢き、その蠢きの一つひとつを糸として、壮大な人間の歴史が紡がれていく。

    事件から430年が経過した今、山本兼一が創出する本能寺の変と交感し、描かれる無明の中に自分自身の座標を求めることができるなら、歴史小説読者として、至福の悦びとなるだろう。

    その悦びを共有する一人として、まだ手にしておられない全ての方に本作を薦めるものである。

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